『1984年』(ジョージ=オーウェル・ハヤカワ文庫)


 


 


【あらすじ】


  舞台は1984年の架空の歴史の世界で、世界大戦後に南北アメリカとイギリスで構成される
オセアニア、ヨーロッパ・ロシアで構成されるユーラシア、アジアで構成されるイースタシア誕生した
3つの巨大な国家に分かれており、それぞれが全体主義的管理体制が敷かれている。
そのオセアニアのロンドンで、INGSOCというイデオロギーをかかげる支配体制である「党」の、
「真理省」の「記録局」に勤める「党外局員」のウィンストン=スミスが主人公である。
「党」は情報統制を司る「真理省」、経済問題を司る「豊富省」、思想犯検挙を司る「愛情省」、
戦争を司る「平和省」の4つで構成されていて、国は、「偉大な兄弟」という指導者を
頂点として、少数の党内局員と比較的少数の党外局員、そして圧倒的多数の「プロレ」という順で
支配される。言論どころか思想、性、言語まで統制され、党員の日常生活は、「テレスクリーン」という
テレビと監視カメラが一つになったもので、「思想警察」によって監視される。
スミスはこれらに反感を抱きながら生活していたが・・・。



【解説】


オーウェルの経歴


  ・・・と、上の方で短くまとめると、まるでどこにでもあるような、三文SFにしか見えません。(笑)
しかし、実はこの小説は、様々な意味で深いです。ジョージ=オーウェルは、インド統治領生まれの
中流階級出身のイギリス人の作家で、最初、主としてそれらインド植民地での、警官として勤務の中での
体験のエッセイを書いてましたが、辞職してパリなど大陸をへてロンドンなどヨーロッパを放浪し、
その中で、当時の貧困下にあった人々を描くエッセイを描いていった人です。そしてその当時の
1930年代、世界恐慌とその中で恐慌を克服しているかのように発展をしてるとされた、ヒトラー下の
ファシズム体制や、スターリン下のスターリニズム体制の中で、オーウェルは一つは人間らしい世界、
人間らしい、ゆるやかな社会主義を模索します。特に1936年のファシストのクーデターによる
スペイン内戦で、イギリス独立労働党の紹介状を持って、共和政府の義勇軍の一団、POUM市民軍へ
参加したとき、その中での恐ろしい皮肉、共和制を守るために集まった義勇軍の中で、ファシズムとの
戦いをそっちのけにして、派閥争い、主導権争いのためのスターリニズムの恐ろしい粛清の論理が
荒れ狂ったのを目の当たりにして、スターリン下での独裁的なソ連社会主義に対する強烈な憎悪と
批判を頂くようになりました。

(スペイン内戦での共和政府内の粛清については、「大地と自由 ランドアンドフリーダム」という映画が
詳しいです)


1984年の世界


  あらすじにあったように、「1984年」の世界では、世界は全体主義国家に三分割され、
それぞれの国で、「上層」としての党内局員、「中層」としての党外局員、「下層」としての
プロレ階級(大衆)とにヒエラルキーが敷かれています。この中で、党外局員の主人公の
ウィンストン=スミスは、記録局員として、マス=メディアなどの記録物の改竄を行う仕事を
しているなかで、この体制に対して深い懐疑を抱くようになります。


 『その方法はわかる、しかし、その理由が分からぬ』。日記を書く事が非公式に禁じられている中で
スミスはこう日記に書き、その体制に対する考察を行おうと深めていきます、「その方法」とは、
制度とそして思考法、つまり、テレスクリーンと思想警察による監視、
そして、党の哲学である「二重思考」、つまり、ある物事が論理的整合性がないとしても、
それを知りつつも意図的に忘れる事、そして党が必要とするなら思い出すこと。
そしてその哲学に裏付けられた「頻繁な歴史の改変」。スミスの所属する記憶局のような
党の組織によって、一分一秒ごとに、あらゆる記録が改竄され、党の主張が常に真実である
ようにすることなど、これらの「手段」の「目的」は何か、そうウィンストンは思考していくことになります。


 「戦争は平和である」「自由は屈従である」「無知は力である」・・・党の3スローガンとは

  思考していく中で、スミスは、党内局員のオブライエンという人物が、彼と同じように、
疑問を抱いている人間なのではないか、そう疑い、そしてある機会で、オブライエンに、
党の創立メンバーで、かつて「偉大なる兄弟」と同地位にあるほどの存在であったのに、党を裏切り、
思想の自由、民主主義を訴える、「人民の敵」とされる、エマニエル=ゴールドスタインを指導者とする
「兄弟同盟」の一員であると明かされ、ゴールドスタインの著書「少数独裁制集散主義の理論と実際」と
いう本を手渡されます。それには党の三つのスローガン、「戦争は平和である」「自由は屈従である」
「無知は力である」についての、その根底にある思想について触れてあり、スミスは読み進めて
行きますが、そこに語られているのは恐らくその世界の「真実」だと思います。


  つまり、そもそもの発端は、想定しているのは第二次世界大戦だとは思いますが、
戦争と革命以前の世界、つまり資本主義なり自由主義社会においては、科学の発達などを
主な原因として、生産性が向上し、人々が真に豊かに自由になれる社会、まさにそれまでの
社会主義が望んでいた社会が、このまま進めば達成される・・・というその直前に、
「人々が真に豊かで自由な社会、階級のない社会」に対し、中産階級と呼ばれると思いますが、
それらの「独占企業と中央集権的統治という不毛の世界の中で形成され」た、官僚や科学者、
政治家、ジャーナリストなどの「中層」を占める人々、金銭よりもなによりも「権力」に
強い憧れを持つ人々により、「疑問」を持たれ、世界はどのような名前であっても、
それまでの「中層」が、「上層」たる富裕層、資本家を蹴落とし自分たちが「上層」として
君臨するために、また、「上層」になったときにはその権力を維持するために、
社会主義」という名の下に「下層」たる労働者階級などの人々を指導し、革命と戦争へと
続いていきます。そして北アメリカ、ヨーロッパ、ロシア、東アジアなどの主要都市に
原爆投下が行われ、あと少しで「上層」の支配する世界が崩壊するというように
なったところで、「上層」はそれまで「中層」だった金銭よりなによりも「権力」に
関心を持つ前述の人々によって、「社会主義」の美名の名の下にとって変わられます。


  そしてそれらの新しく「上層」となった人々、つまりオセアニアの場合は「党内局員」という支配層に
よって、「社会主義」が唱えていた「公有化」(国有化ではない)として、資本家などの土地や工場、資産や
資源を「国有化」します。

しかし、「財貨と特権は共有制にした時、最も簡単に防衛される」とのように、つまり「党」のものとなり、

その「党」の支配階級である「上層」たる「党内局員」が、財貨と特権を享受し、しかもそれは資本家のときの
ように嫉妬や批判を共有制がために受けることなく、保持できます。


  そうして成立した3大国家においては、本来の意味での社会主義者たち、社会主義革命と思い革命
と戦争を導いた英雄たちが、「権力」を至上のものとする「上層」たちによって、粛清されていきます。
しかし、この粛清は単に本来の意味での社会主義者を殺すことが目的なだけではなく、まず、「殉教者」に
するのではなく、それらの人々の心を完全に自分たちと同じ思想になるように「治療」され、そこで他人の
精神を完全に支配することにより「権力」の至福を得ること、それらにより旧世代の社会主義者
粛清されるなか、ウィンストンの生まれて物心ついたときから記憶するオセアニアをはじめとする3大国
は成立します。


  しかし、その3大国間では、絶えず「戦争」と呼ばれるものは続いていますが、本来の意味の戦争、
つまりクラウゼビッツが「戦争は外交の延長線上にある」とした意味での戦争や、第二次世界大戦での
「殲滅戦、総力戦」ではなく、それぞれの国の被支配地の境界線上でゆらゆらと境界線が揺れるだけで
勝敗を目的としない、戦争そのものが目的である、「内政としての戦争」が行われます。
ここにおいては先述のような、資源や領土、もしくは相手の破壊を目的としてはいません。


 そもそもこの権力を至上とする「上層」による支配は、科学の発展により、生産性が向上し、人々が
豊かになり自由になることに疑問が持たれて生まれた体制です。オーウェルの主張ですが、
「特権は人々の貧困による愚鈍化により保持される」とのように、人々が豊かになってはいけないのです。
しかし、労働させないでおけばいいかといえば、それはまた得策ではなく、最も「世界の真の富を増加
させずに産業の車輪を回すか」というと、「戦争」による戦時生産とその生産物の相互破壊となる、
といいます。この体制の目的は「不自由」と「不平等」であり、不平等、つまり特権など階級制度の構造を
を絶対的に保持する事が目的であり、そのために戦争は、労働の歯車をまわしつつもその生産物を
破壊して消費するための手段にすぎない、また、「戦時」という状態においては支配階級が指導を行うこと
の正当化もでき、また、「戦時」における人々の「熱狂」により、「敵」へ憎悪を向けさせ支配構造に疑問を
もたせない、いや、「戦時」に必要なものとして認識させること、それがこの世界の「戦争」であり、外交の
延長上として行われてきたそれまでの戦争と違った、「内政問題としての戦争」となります。


党と支配・・・二重思考、過去の可変性


  そうして思索を深めていくうちに、ある日スミスは思想警察に逮捕され、そして愛情省の中で、
思想警察の一員としてのオブライエンと再会します。そして、スミスは電気ショックを与えられる台の上に
縛られたまま、党のスローガン、「過去を支配する者は未来まで支配する、現在を支配する者は
過去まで支配する」に対して2人は問答します。


『ウィンストン、君の意見では、過去は実在すると思うかね?』


『過去というものは、具象的なものとして空間に存在すると思うかね?どこか別の場所に

有形の世界があって、そこに過去が依然として存在してると思うかね?』

『いいえ』

『では、もし過去が存在するとすれば、一体どこに存在していると思うかね?』

『記録に。文字にかかれています。』

『記録にね。それから・・・?』

『頭の中に。人間の記憶の中に』

『記憶の中にね。わが党はあらゆる記録を管理している。そして我々は記憶も管理している。


すると我々は過去まで管理していることにならないかね?』

このオブライエンの論理、すべての記録、記憶を、現在管理することで、過去を「支配」するという思想に
対して、スミスはまず人の記憶に対しての疑問を訴えます。

『しかし、一体どうやって人間の記憶力を停止させることができるのですか』


『記憶は自然発生的なものです。自分の意志ではどうにもなりません。どうやって記憶を
管理できるんです?』


そう訴えるスミスに対して、オブライエンは、


『訓練された精神の持ち主だけが現実を認識することができるのだよ。


君は現実とは客観的なもの、外在的なもの、自立的に存在するものだと信じている。

・・・しかしはっきり言っておくがウィンストン、現実というものは外在的なものでは

ないのだよ。現実とは人間の、頭の中にだけ存在するものであって、

それ以外のところには存在しないのだ。

集団主義体制の下、不滅である党の精神の内部にしか存在し得ないのだ。

党が真実だと主張するものは何であれ、絶対的な真実なのだ・・・』


なんとなく、エヴァンゲ○オン的ですが(笑) オブライエンは、電気ショックを与えられる横たわっている
スミスに対して目の前に指を4本、差し出して聞きます。


『君は覚えているかね。君は自分の日記にこう書き込んでいる。


「自由というのは2たす2が4になる自由だ」と。』

『はい』

『私は何本、指を広げているかね、ウィンストン?』

『四本です』

『で、もし党がそれは四本じゃない、五本だといったら・・・何本かね?』


『四本です』


そのとたん、スミスに激しい電気ショックが加えられます。それに大して、オブライエンは再び
問い掛けます。


『指は何本かね、ウィンストン?』


『四本です』

電気ショックのダイアルは60度に上昇した。

『指は何本かね、ウィンストン?』


『四本だ、四本!他にどういえばいいんです?四本だ!』

再び激しい電気ショックが与えられます。

『指は何本かね、ウィンストン?』


『四本だ!止めろ、止めてくれ!どうしてこんなことが続けられるんです?四本だ、四本!』

『指は何本かね、ウィンストン?』

『五本だ、五本!五本!』

『そうじゃない、ウィンストン、ごまかそうとしても無駄だぞ。君は嘘をついているんだ。

君はまだ四本だと信じている。指は何本あるのかね?』


『四本!五本です!四本だ!どっちだっていいんです。ただこいつだけはやめてくれ!痛いのだけはやめてくれ!』

電気ショックが止められ、ガチガチと震えるウィンストンに対して、オブライエンが穏やかに言います。

『どうしようもないんです。目の前にあるのが、あるがままに


見えるのだから仕方ないでしょう。2たす2は4です』 

『時にはね、ウィンストン。時には5にもなるのだよ。3になることだってある。

同時に4にも5にも3にもなる場合がある。君はもう少し苦労しなきゃならない。


正気に戻ろうとしたら、そう簡単にはいかないぞ』


そして再び電気ショックと問いが始まります。


『指は何本かね、ウィンストン?』


『4本です。四本だと思います。できれば五本見たいのですが、何とか五本見ようと努めているんです』

『君はどっちを希望するのかね、五本、見えると私に信じ込ませたいのか、本当に五本、見ようとするのか』

『本当に五本見たいのです』

『もう一回』


そしてさらに激しい、ダイアルの最大値に近いほどの電気ショックが与えられ、スミスの意識は混濁し、
目の前に見える指が、ダンスのように踊り、絡み合ってはほぐれ、4と5とに、不可思議に同一性を
感じるようになります。


『私は何本の指を突き出しているかね、ウィンストン?』


『わかりません、分からないんです。あれをもう一回やったら、私は死んでしまいます。4か5か6か・・・

正直いって、私にはわかりません』


『いくらかマシになった』


  二重思考の世界では、「真理」「科学」といった言葉は、本来の意味では消滅し、「党」が現在進めている
将来英語に取って変えようとしている簡略英語のニュースピーク(新語法)には、「科学」の単語すら
ありません。ニュースピークとは、そもそもが、言語の段階で、異端な思想を表す言葉をすべて消滅させ、
思考を不可能にする事が目的とされています。(※1 ニュースピークについては、最後の段に別個解説)


 しかし、二重思考という哲学が意味するものはすなわち科学や過去などで体現されるような経験主義の
全面的な否定であり、経験などの客観の絶対性の否定でもあります。虚構を司る「真理省」、戦争を司る
「平和省」など、正反対の言葉を意味に当てているのも、二重思考の実践の一つであり、すなわち、
党が真実というものが真実である、その手段として党は出版物から映像などすべての記録、そして
その二重思考という哲学の実践によって記憶まで、管理し、真実としているのです。ここまでは、
「手段」ですが、では、先のウィンストンの言ったように「目的」はなにか、ということになります。


それに対してオブライエンはスミスに語ります。


『しからば、われわれが、「なぜ」権力にしがみついてるのかを


説明してくれないかね?我々の動機は一体なんだろう?』


『あなた方は我々の幸福を考えて支配しています。あなた方は一般の人間に自治の資格がないと・・・』

『何を馬鹿な、ウィンストン!ばかげたことを!・・・では、ウィンストン、

私が君に代わってその質問に答えよう。党はただ権力のために権力を求めている、

富でも贅沢のためでもない、権力にしか関心がないのだ。ただ権力、

それも純然たる権力のためだ。・・・・君は私の顔が老け込み、疲れ果てたと思っている。

君は私が権力のことを語りながら自分の肉体的な衰えを阻止する力もないと考えている。

ウィンストン、人間は1個の細胞に過ぎないことが分からないのかね?

人間は爪を切ると死んでしまうと思うのかね?』

『われわれは権力の司祭者だ。神は権力なのだ。君は「自由は屈従」という

党のスローガンを知っている。しかしその逆もまた成立し得ると考えたことがあるかね?

屈従は自由である、と。一人だけで・・・自由の身だと、人間は常に敗北する。

しかし人間が完全に徹底的な自己放棄を行い、自己だけの存在から脱却して党に合体し、

自己すなわち党ということになれば、彼は全能となり、不滅の存在になるのだ。』

『もう一つ君に認識してもらいたい点は、人間を意のままにできる力が権力だということである。

物質的世界、君の言う外在的現実に対する支配は、さして重要な問題ではない。


すでに物質に対する我々の支配は絶対的なものになってるからね』


そしてウィンストンは、オブライエンのこの主張に絶叫して問い掛けます。


『しかし、どうやって物質を支配できるんです?あなた方は天候も引力も


支配してないじゃありませんか。病気だって・・・』

それに対して、党の哲学の根本的前提をオブライエンが制して答えます。

『我々は精神を支配してるからこそ、物質も支配押しているのだ。現実というものは

頭蓋骨の内部にしか存在しないのだよ。われわれに出来ないことはなに一つない。

姿を隠すこと、空中に浮遊すること・・・なんだってできる。自然の諸法則に関する

19世紀的な考え方は放棄しなくちゃいけない。われわれが自然の法則を作るのだ』

それに対し、ウィンストンはさらに絶叫します。

『人間ときた日には、こんなに小さくて、無力なんです!人類が誕生してから

どのくらいの歳月が経ったでしょうか。何百万年前もの間、地球には人間が住んでなかったのですよ』

『何を言う。地球は人類と同じ時期に出来たのだ。それ以上に古いわけがない。

どうしてそれ以上古いといえるのだ?何事も存在し得ないよ、人間の意識を通じなければね』

『しかし、すでに絶滅した動物の化石が沢山出ています、マンモスだのマストドンだの、

それから巨大な爬虫類なども・・・』

『ウィンストン、君はそれらの骨を見たことがあるのかね?そいつは19世紀の生物学者

でっち上げたのだ。人類が出現する以前はなにもなかったのだよ。人類が終わった後も、


もし絶滅する日がくるならば、やはり何も存在しなくなる。人間が存在しなければ、一切は無なのだ』


  ますますエヴェンゲ○オンちっくですが(笑) このオブライエンの論理に対して、スミスはやはり自分が
正しいと、自分の意識以外は何事も存在しないという進行、それが論理的に虚妄だと立証できる方法が
あったに違いないと考えます。オブライエンは、スミスの苦悩している顔を見て、それを見通して言います。

『ウィンストン、君にいったはずだ、君は形而上学に弱いとね。


君がいま思い出そうとしてるのは唯我論(ソリプシズム)だ。しかし君は間違っている。

そいつは唯我論じゃない。お望みとあらば集団唯我論といってもいい。しかしそれは本質的に違う。


実際は正反対のものだ』

そして、オブライエンは、これから言うのは、すべて余談だ、と断った上で、権力追求の、真実の支配の、
「目的」について語ります。

『真の権力とは、われわれが日夜そのために戦わねばならない権力とは、


物質ではなくて人間を支配する力のことだ』

『ウィンストン、人間は相手に対して、どのように力を誇示するものかね?』

『相手を苦しめることによって』

『その通り。相手を苦しめることによって、だ。服従だけでは十分じゃない。

権力とは相手に苦痛と屈辱を与えることである。

権力とは人間の精神をズタズタに引き裂いた後、思うがままの新しい型に造り直すことだ。

・・・異端者、つまり社会の敵はいつまでも存在し、従って彼らは繰り返し敗北し、

屈辱を受けることとなるのだ。スパイ、裏切り、逮捕、拷問、行方不明は永遠になくなるまい。

勝利の世界であると同時に恐怖の世界となるのだ。ゴールドスタインとその異教は

永遠に生き続けよう。毎日のように、いや、一瞬ごとに彼らは敗北させら絵、嘲笑されるだろう、


それでいながら、彼らはずっと生き続けるのだよ。』


  つまり、「党」の哲学の「目的」とは、他人を支配すること、完全に相手の意思や思考を支配下
おくこと、そのために、あらゆる出版物など記録を管理し、制度としてはテレスクリーンや思想警察による
プレッシャー、記録の絶え間ない改ざんによって、二重思考を実践させ人間精神を管理し、人間精神を
管理することで人間の認識を管理し、「真実」という唯一の「正統」の所有者として、「党」が君臨すること。
そして、個人は、自我を捨て、「党」という党員によって構成される有機体と意識まで融合することで、
全知全能の「党」と同化し自らも全知全能の一部となり、権力の司祭者となること、
それが目的であり手段でもあるのです。


  というように、実は根底にこのような恐ろしい哲学があったというのが明かされます。
ちなみに、党の指導者、「偉大なる兄弟」とは「実在」しますが、生命体として出産された事はないはず
です、一種の、概念としての存在でしかないのです。あくまで、全能唯一の「党」の指導者、
その実在でしかありません。同様に「人民の敵」として「敵」であるゴールドスタインもまた、
生命体として出産されたことがあるか分かりません。ゴールドスタインとは、「敵」であり「異端」であり
「我々」ではないもの、戦って叩き潰して勝利するための、「哀れな敵」でしかないのです。
イースタシアやユーラシアは実在しますが、しかし「戦線」以外の一般国民は完全にそれらの国と
断絶しています。オセアニアにとっては、イースタシアもユーラシアも、「戦って勝利する相手」でしかなく、
前述のような「戦争」目的のためにすぎないのです。


 オブライエンがこれらの哲学を集団的唯我論ではないと否定していますが、オーウェルはどのような意味
でそれとは正反対のものだ、と言っているのかについては正直分かりません。唯我論はバークリーを代表
とする観念論者によって提唱されましたが、それについての論理的な反証というよりも、実践を重視する
プラグマティズムによって、実践のできない理論を唱える事も、またそれが真実であってもなくても無意味
であるとして、どちらかというと実践を重視する立場の論理で否定されました。


 もしかすると、それぞれが個別に唯我論を持つ個々人の集団という意味ではないという否定かも
しれません、つまり、党員個人は「党」という永遠の有機体に完全に融合することでむしろ主観を捨てて
いるという意味で、唯我論ではないと言っているのかもしれません。


 目的と手段についてそのほかに言えば、先に書いたゴールドスタインの著書の中で、この三大国の間で
恒常的に続いている戦争もまた領土や資源を求めるような、本来的な意味の戦争ではなく、外に「敵」が
いることによって、人々の意識を外に向かわせ、また戦時下ということでの「党」の独裁の正統化、
そして戦時下の極めて特殊な熱狂状態、これもまた、先の「権力とは敵を踏みつけること」のように
一つの目的であるとされています。これは、敵国に限らず「異端者」、オセアニアでいうと「兄弟同盟」
ですが、「権力」には踏みつけるもの、「敵」なり「異端」がおり、それを常に踏みつけ常に勝利することが、
権力の実在を示すものであるという点で、「敵」「異端」などの「征服されるべきもの」は権力概念のために
不可欠な表裏一体の裏の部分でもあるといえます。


「1984年」の現代的意義


  この「1984年」という小説は、一見すると、三文SF小説か、はたまたベタな反共小説のように
見えますが、そんな薄いものではなく、非常に深いものです。

「過去の可変性(経験主義の絶対性の否定)」「物質(現在、主観)の管理による真実の創作」、
そして「自己滅却による党という権力であり神である有機体への融合」など描かれてきたことは、
スターリニズムにおける歴史の改竄や、よくスターリニズムによるソ連を頂点としたコミンテルン体制は
よく中世キリスト教共同体体制になぞらえられますが(スターリンは学生時代、神学校の生徒でした)、
異端審問的な過酷な弾圧、党の官僚化、歴史の改ざんなどスターリニズムの告発というだけではなく、
この「1984年」で描かれている世界は、現在の我々にも決して無縁なものではありません。


  「真理」や「客観」の存在については、オーウェルよりはるか以前から、そして現在に至るまでなお、
ずっと議論がなされていることであり、私たちは普通に生活している上では、真実とは唯一のものだ、
と疑いもしませんが、その脆弱性は、特に「常識」などあいまいな概念が身近の例のように、確かな問題
として、我々が抱えているものです。そしてそれらの否定の先にあるのは、古代ギリシャアテナイでは
相対主義の蔓延による社会の荒廃でしたが、そののちにその荒廃を救うためにプラトンが唱えた
イデア論哲人政治などの概念は、「プラトンの呪縛」と呼ばれるように現在までよくも悪くも影響を
及ぼしています。


 また、実際の西暦1984年に、世界のマスメディアは、行政政府の肥大化、マスメディアの影響力、
世論の支配力の増大、巨大企業の社会支配など、オーウェルのこの小説を鑑み、
「ビックブラザー(偉大なる兄弟)は実在するか」と、問いたこともありました。国家、マスメディア、巨大企業
などから「知」という権力など、あらゆる「権力」のもちうる、この「1984年」の世界像は、
「権力」が存在する限り、問われつづけなければならないものと言えるのかもしれません。


 ※ニュースピーク(新語法)の諸原理について


   新語法は、言語の段階において、そもそも異端の思想を、思考できないように人為的に作られた
簡略英語です。一番いい解説はもちろん、「1984年」の後ろにある「ニュースピークの諸原理」ですが、
ここでは簡略に解説します。


 ニュースピークは極めて簡略化された英語で、まず基本として、動詞では過去形と過去分詞は、
すべての動詞が、後ろに−edをつけるだけ、つまり、thinkは、thoughtではなくて、thinkedになります。
そして形容詞は、名詞・動詞に対して−fulとつけるだけ、副詞は−wiseをつけるだけ、つまり「早い」なら
「rapid」ではなく「speaedful」、「早く」では、「quickly」ではなく、「speedwise」と、まったく例外のない文法
が適用されます。その代わり、本来、不規則変化が起きた理由であった、発音上の発音のしやすさは
なくなり、しゃべるとつっかえたような、詰まったような早口言葉のようになります。

あとは、形容詞については、un-をつければ、すべて否定形に、plus-をつければ、強調になり、たとえば、
「いい」「わるい」では、good、ungoodで、badが不要として抹消されました。
また、最上級の強調についてはdoubleplus-をつければよく、「最悪」とは、doubleplusungoodとなります。
なんか、言いにくいですけど(笑)


  これらがそして、その他、前述であった、たとえば「真理省」については、本来はministry of trueが、
簡略化されてminiturueにと、政治的な用語については、徹底した簡略化が成されます。元々の党の
イデオロギーの「INGSOCイングソック」自体、本来はEnglish Socialismの略です。なぜこのような文字
の省略が行われるかと言えば、例えばINGSOCについては、もしもEnglish Socialismならば、イメージ
として、当然社会主義をイメージしますが、INGSOCでは、それが想起されません。これは実際の例
として、共産主義インターナショナルCommunist Internationalが、コミンテルンCominternと略されると、
一つの単語にすぎなくなり、力を失うことを、オーウェルは挙げてソ連社会主義の路線を批判して
います。また、これは言葉と意味とがまったく正反対の性質を持たせる事なども、新語法のもう一つの
目的である二重思考の実践のために行われます。これは、現在の場合は中国の「市場社会主義」や
北朝鮮やその他スターリニズムの残した遺物などを代表として、それ以外に私たちの自由主義世界にも
例えば「自由」「民主」などの言葉と、実在する政治的存在、グレアム=ウォーラスの言葉でいえば
「政治的実在」となりますが、それらに関しても痛烈な批判として新語法は見ることができます。


  他の用語については、名詞等は特に「非正統的」なもの、例えば科学science、民主主義democracy、
国際主義internationalismなどの用語は、辞書から抹消され、概念として消滅し、犯罪思考crime thinkの
一語に集約されます。これは「1984年」の世界では「異端」思想を持たないための手段ですが、現在の
私たちの世界においても、例えばソ連崩壊以降に「異端」とされた「社会主義」や「共産主義」という
言葉が、本来はそれらのソ連を筆頭とする第二次大戦後成立した「社会主義国家」(社会主義「国家」
という時点で、社会主義ではないのですが)など、言葉の意味と正反対に進んだスターリニズム
経験からだけで、「共産主義」と一括りにして、本来的な意味のマルクス主義やそれ以降の様々な
社会主義の思想の形態を「異端」として、ないし存在しないものとして無視しているように見えることを
考えると、一種の「犯罪思考」として、あえてすべての社会主義の多様な思想をソ連社会主義体制と
同一視し「共産主義」の一語に集約されて使われているように感じます。


  このように新語法は、文法としては極めて簡素化され、習得しやすいものですが、目的はあくまで
思考の可能性を狭めるものであり、これは私たちの世界もそれを笑える立場でもないように思います。


  ・・・話が変わりますが、昔流行った「チョベリバ」って、非常によくできた新語法だなと思ったのは、
僕だけでしょうか?(笑)

◯おまけですー
これは、映画版の「1984」で用いられている、オセアニアの「国歌」です。まるで社会主義者
つくったような歌詞ですが、これもまた二重思考としての、実際と反対の歌詞なのでしょうね。。。



オセアニア国歌
Oceania, 'Tis for Thee

Strong and peaceful, wise and brave;
Fighting the fight for the whole world to save.
We the people will ceaselessly strive
To keep our great revolution alive.
Unfurl the banners, look at the screen;
Never before has such glory been seen.

Oceania, Oceania, Oceania, 'tis for thee.
Every deed, every thought 'tis for thee.
Every deed, every thought 'tis for thee.
 







強大さ! 賢さ! 勇敢さ! 平和!
全世界を得るための闘争を戦い続ける
我々、人民は絶え間なく我々の偉大なる革命を生き続けさせるよう力を尽くす
国旗を掲げ、スクリーンを見よ
そのような栄光はかつて決してなかった

オセアニアオセアニアオセアニア(汝のために)。

あらゆる行為、あらゆる思いは汝のために
あらゆる行為、あらゆる思いは汝のために


 

 

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○後記
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