「反日」という言葉について左翼の私が考えてみた結果の長々しい文章

 【「反日」という危険性のある単語とその便宜的な定義の問題】

  近年になってネットで使われ、そして公然にも使われるようになった「反日」という言葉は、その言葉に、その意味が何かという問題と、またそれが敵対者に対してレッテルとし用い、そのレッテルを貼られたのを見た人を思考停止にされる、危険な言葉でもある。そのつもりはなかったのだが、思わず某所で論じてしまった文章について、訂正と加筆をしながら、述べさせて頂いてみたいと思う。

 

  ある種の人々は、不思議な事に日本共産党を「反日」という。一体何をもって「反日」と定義しているのだろうか。それを「日本に利益になる事」「国民が幸福になる事」という意味の事に「反する」つもりがないのだとすれば、もしもそれに反さない場合、実際はそうでないのにも関わらず、「反日」扱いするのでは、「反日」とか「親日」とか「愛国」とかそういう言葉を使う人間が、実に胡散臭くなるだけではないだろうか。

 

  私は全然中立でもなんでもないし、率直に言えば今までの記事にあったようにずっと共産党を支持していて、さらに率直に言えば、自分では自分の事を左翼だと思っているので、全然中立ではないのは当然なのだが、下に書かせていただいた文章を、いざ書いてみると、何故か慎重になって論調が中立かのように見えてしまった。私自身は偏っているので、その面を割り引いて頂ければと思う。

 

【例1…「反日」と揶揄された民主党政権の政策の場合】

  先述の「日本に利益になる事」「国民が幸福になる事」という意味なら、よくネットの言説で当時「反日」などとレッテルが貼られていた民主党政権の例でいえば、民主党側は「日本の利益に反するため」ないし「国民を幸せにしないよう」にするつもりは当たり前だが無かっただろう。

 

  例えば、当初「埋蔵金」が財源だとして、それを前提としたマニフェストを掲げた。それは、外国為替資金特別会計など特別会計やその他などがあり、例えば外為特会の積立金が約20兆円あるはずだと、それを財源の一つと考えていたそうだが、極端な円高もあり、そう取り崩す訳にはいかなくなかなか用いる事ができない面もあったり、結果的に「ウソ」だという事になった。「ウソ」をつくつもりではなかったはずだが、「実務能力の無さでの間違った政策」がなされたのは、どちらにしろ大きな過失と責任があるのは確かだとは思う。

 

  また、政策では例えば、子ども手当論議になった一つであったが、少子化のための施策であって「日本に利益になる事」「国民が幸福になる事」のにも関わらず、「在日外国人による不正受給の可能性」があるとして、当時ネット上ではデマや誹謗中傷も含め極めて激しく攻撃する声があったが、現在、結果的に児童手当としてそのまま引き続いたものも、現況届の義務はあるが在日外国人の親であっても受給できるのは変更はなく、政策が現在も引き続いている事から考えると、間違っていたという政策をその後の交代した政権党が続ける訳がないし、間違っていたとは言えないだろう。

 

  また、財政における歳出の削減として、事業仕分けが行われたが、もしも行うならば本来はもっと細かに多面的に考える必要があったのに対し、十分な時間で削減の検討が行われなかった可能性が存在するが、結果としては、本来の16兆円というのには結局要求復活となったのも多かったにも関わらず、歳出削減で1兆円、国庫返納で1兆円で、合計で2兆円の結果があったのは、その後に「パフォーマンスで何も削れなかった」という激しい攻撃には、その攻撃は事実ではなく、実際に削る事ができて、その分の増税をせず違う用途に用いる事ができた、という事ができる。

 

  そして、経済政策が行われた結果としての経済指標では、2010年の指標の上昇について、「リーマンショック後であり、その回復のおかげであって、経済が良くなった訳ではない」という人もいるが、ただ、リーマンショックから回復基調に転じ、また欧州通貨危機と311という危機を経て下がったが、その「欧州通貨危機と311の後であり、その回復のおかげであって、経済が良くなった訳ではない」というような事をその後の政権交代後の政権に言うのが適切かという点からいうと、そうではないと思う。

 

  少なくとも立て続いた危機に対して好転の兆しを出し、問題として株価の低迷と、その原因の一因でもある極端な円高だったが、これは当時民主党政権の時に金融緩和や国債の引き受けを行う、想定の規模こそ違うだろうが、現在なされている金融政策を取ることを日銀に要請していたが拒否され、尊重する形で行われなかった。これは、日銀内のパワーバランスで、金融政策を採りたくても執行する日銀側の反対があり、中央銀行の在り方として尊重するべき、という現実があったのも、また事実ではある。

 

 そういう意味では、当たり前だが「日本に利益になる事」「国民が幸福になる事」という意図で行われたのであろうし、率直に言って民主党政権の時にそれほど影響を及ぼす大規模な政策は、民主党の能力の無さもあっただろうし、それに根本的に円高とデフレが問題で金融政策が必要で、内需創出のための財政出動をしようとしても、財政が危機的であると財政再建を唱えた以上は、財政出動したくても国債発行を積極的にはできない、という問題があるのもあって、結果的に経済政策では「何かをやったせい」で問題が起きたというより、「何かをしなかったせい」で問題が起きた面があるように思い、にもかかわらず経済指標を見ると、果たしてネットで極めて激しく言われていた、今でさえ言い続けられているような「悪政」をしたかというと、個人的な私見では、あまり納得ができるものがない。

【「反日」という単語を使う少なくない人達の支持している政策はどうか】

  安倍政権になって日銀の人事と政策決定に、かなり強権的と批判もある形で入って、その「規模」の問題はのちに後述するとして、金融緩和政策を行わせたが、同時に日銀の独立性を損なっている、という批判は、政権発足時当時から言われていて、それが確かに問題性があるのは、普通に中央銀行の問題を論じるなら問題性自体はある異論がない事ではないだろうか。もちろん、決定自体は内閣の決定を受けた財務大臣が行うにせよ、欧米の場合はその決定に蔵相と中央銀行を交えて行うため、好ましいとは言われない現実がある。そのような政府の介入が許されるとするなら、行う事をする内閣もあっただろうが、そう許されない事、少なくとも好ましくない事と認識されていたのがある。そう強引な形で行った結果として「日本の利益になる事」になったか、もしくは「国民が幸福になる事」なったか、また、過失かそれとも故意に近い重過失があったのか、考えてみたいと思う。

 

  第二次安倍政権になってから、日銀による大規模な金融緩和政策が行われたが、それが行ったのは、マイナス金利政策も一つだが、また日銀のETFで株式を買い支える形もあり、低金利&株価の公的買い支え、また加えて年金運用の株式の割合を安倍政権で160兆円あるGPIFの資金運用のうち、それまでは12%のみに限られていた国内債券の割合を、全体の25%と二倍以上にして、結果、GPIFと日銀のETFで株価を買い支える形の官製バブルが誕生したように個人的には考える。

 

  しかし、円安の進行の結果、それだけではなく外需が牽引する形の景気回復とそれによる設備投資の増加など、内需の増加もあり、ただ「バブル」というには、言い切れないのもまた事実ではある。

 

  ただ、残念ながら実質賃金や労働分配率は、この6年間で労働分配率はむしろ逆に下がっており、実質賃金は1992年を100とすると、引き合いに出すべきか分からないが以前と比べるという意味では、2010年は93.8、2011年は93.6、2015年は88.4である。これは、2018年についての数字を見たが、実質賃金は3.3%上昇した事になっているのだが、統計の結果を出すためのベンチマークの基準を、2018年に大きく改変した形で、古いベンチマークから新しいベンチマークに変えると、賃金の変化が全くなかったとしても、計算上それだけで1796円賃金が上昇した結果になる。2017年のベンチマークで比べると、実際は実質賃金は4.2%下がってる計算となる。よって、少なくとも「景気回復」なら本来あるはずである、賃金上昇は物価上昇に追いついていないで、景気回復をしていて今が好景気である、というのは非常に疑わしくなる。

 

  そして、マイナス金利は当然その他の資産にも「預金でない、上昇が見込まれると思われる資産」を投資対象としてバブルを起こし、結果不動産バブルなどの資産バブルも起きているとしか言えない。これを「景気回復」と呼ぶには、問題は現在起きかかっている「資産バブル崩壊」後の責任を大きく考える義務があるはずだ。

 

  それを考えると、あまりに無責任な、人工的な、国主導のバブルにより、これが破裂した結果がどうなるかは、12月に買い支えるためのETFの資金6兆円が尽き、大暴落が起きたのを見れば、どれだけ脆弱かなのが分かるだろうか。

 

【例2…「反日」とされる共産党の政策の場合】

  そのようなバブルではなく、日本は内需主導型の経済なのだから、内需を増やすためには現在の企業と家計との間での、労働分配率を上げる事が、フローを増やし、バブル状態になって一向に資金が回らずにストックの形になり、例えば内部留保に回っている事こそが、不景気の原因であり問題ではないか、と日本共産党やその他の野党も論じてきた。

 

  またそして、少子高齢化の問題は、「結婚しない」のではなく非正規雇用化とその低賃金での雇用が、長期的に子どもを持った場合の進学の時の学費の問題などを考えての通りのように、雇用の安定性と持続的な賃金の上昇がなければ、「結婚しても家庭が経済的に成り立たず子供を持つだけで破綻するのが予見できるため結婚できない」という問題なのだと言う可能性がある。

 

  国立社会保障・人口問題研究所の調査などでは、結婚に関しては「結婚後の資金に不安」事や、子供を持つ事については「収入が不安定なこと」や「子育てや教育にお金がかかりすぎる」など、経済面が大きい面があり、また内閣府に望む支援でも、20歳~59歳の男女では「給料を上げて、安定した家計を営めるよう支援する」が最も高く、次いで「夫婦がともに働き続けられるような職場環境の充実」、「雇用対策をして、安定した雇用機会を提供する」となっている。

 

  そういった面を見る限り、それらの問題を指摘し、非正規雇用を促進する派遣制度の規制と、内部留保への課税で労働分配へ回るように誘導するなど賃金を上げるべきだ、という政策を提言している共産党は、それは奇妙な事ではないのか。

 【このバブルの問題の予見可能性の高さは過失なのか】

  現在のように政策的にバブルが起きると予見できるはずなのにバブルを起こししてしまった事で、株高を始めとする資産バブルが起き、株価など多くの国民がニュースで目にする「指標」が過度に重要視され、またバブル経済なのにも関わらず賃金上昇を伴わない「人手不足」を手放しに喜んでいいものか極めて疑問で、むしろ崩壊時の打撃を考えると、悪い事だと個人的には思う。結果的に見れば、資産バブル以外の各種経済指標は、費やしてしまった犠牲に対して、その後の崩壊で差し引かれる事を考えると見合うものか疑問に思ってしまう。

 

  そして今後、バブル崩壊が起きた場合にどのような事が起きるかは、事細かには書けないが、少なくとも言えるのは、この後に残るのは、政府だけでなく家計や企業も含めた、数多くの借金の山だ。日銀はETFで購入した国内株式や国債の購入した分を、「いずれ」は必ず処分しなければならない。売らなければならない。しかも、「いずれ」といっても遠い将来でなく、保有してる長期国債が下落して評価損が出てしまう事で、日銀が債務超過になってしまう、かといって当たり前だが全部は売れる訳がないしそんな事をしたらお金が民間から消えてしまうのだから当たり前だが全部売る訳にはいかない。

 

  本来は「2%程度のインフレと賃金上昇」をしたあとで、それとそれによる成果を得てから「出口戦略」として、じょじょにフレキシブルに保有国債ETFやその他を放出していく予定だったはずなのだが、結果的にはヘリコプターマネーで2%のインフレは起きず賃金もほとんど上昇しない形で、ここまで来てしまった。この危険性はやる前から散々言われていた事だったが、「理論的にうまくいくはずで問題ない」という事で、「成功しなかった場合」が「想定外だった」というなら、原発安全神話を思い出させるようでシャレにならない思考だ。まして原発ほど歴史が無いどころか、ほぼ歴史などなくまだ理論だったものをしてしまったであり、「理論的にうまくいかない事は想定外であり、起こるはずがなかった」と言ってしまっていいものなのか。

 

  どのみち、中央銀行として債務超過になり自己資本が吹き飛ぶ事のないように、もしくは吹き飛んだとしてもなるべく被害が小さいように、いずれは売らなければ中央銀行として世界的に破綻していると判断されてしまうので、売らざるを得ない時が来てしまう。

 

  そして、売ったとしても、少なくとも株式に対しては、現在株式の時価総額の約5%を日銀が保有しているため、当然ながら現在下落傾向にあるのが続くとしてその中で売ると、同時に極めて高い確率で暴落する。だが暴落した結果の価値で売らなければならない。売ったとしたら日銀のBSは大きく損ない危機的状況に陥る。

 

  先述の国債に関しての問題では、いずれは遠くない未来には売らなければならないが、購入するより売却する方が大きく上回るのが続く事になれば、長期国債は下落し長期金利は大きく上昇する危険性がある。長期金利が上がったらそうなるかは、現在の10年物の長期金利が、0.020%だが、それが現在、日本国の発行する国債の2018年12月21日時点における保有割合は、45.7%に達し、半分に近いくらいの異常さである。

 

  それを国債を売って吐き出す方を多くして、国債を買い上げ吸う方を少なくし、結果的に国債を日銀が売る方が多くするとすれば、どれだけ債券がどれだけ下落してどれだけ長期金利が上がるか分からない。もしも、とても単純化して、仮に0.040%まで上昇するだけでも、とても単純化して考えると利払いは倍近く増えてしまうに。2倍で済めばいいが、その上今後「売る量より買う量の方が多い買い手」を日銀がつとめないとするなら、国民の資産からいって、もはや限界は遠くないのは、実際に国債の買い手がなかなかつかない売買不成立な状態も既に知っている範囲では2018年のみで8回起きてる。普段はそうそう売買不成立も起きない、というよりも2001~2013年まで一回も不成立が起きず、去年も2回しか不成立がなかったのに、異常な状態であり、「買い手が国民からだから問題ない」と言えるのか。

 

  まったくの余談だが、「買い手が国民で国民からの借金で内債であり国民の資産であるから問題ない」というのは、戦前に国債を戦費調達のために再三にわたり政府が主張していたもので、ちなみに2018年6月時点の国債残高のGDP比は222%だが、敗戦時の国債残高のGDP比は204%で、それが結果としてどうやって解消したのかは、結果的には対内デフォルトで「国民の資産に対しては預金封鎖と新円の導入をした上で財産税として25~90%の税金をかけ没収し、国民や企業に対し国が負っている債務に100%の税率をかけた上で書類上、全額債務弁済し税金として全額抑える」という荒っぽい方法で解決し、結果は知っての通り戦後直後の混乱とインフレということになった。それと同じ事が起きると言う訳ではないが、対内デフォルトは少なくとも前例が日本ではあるし、当時内債でこれは国民の資産だから大丈夫だと言われていたのがそうなったのを考えると、果たして今の状態は健全と言え大丈夫だと言えるのかと思ってしまう。

 

  話が逸れたが、金融緩和で膨大な資金を注ぎ込めば、ヘリコプターマネーをすれば、本来は物価は上がるはず、そして、「物価も上がるなら賃金も上がるはず」というある種の論理的でない願望があったのではないか。「世界的な法人税減税競争がなされている」という事を強調する言説と「国際競争力」の旗印で、法人税減税を正当化してきたが、そもそも法人税の実効税率でいえば、問題なのは中小企業への法人税軽減であり、大企業については企業によってはむしろ納税より還付の方が多い自体すら起きている状態では、単純な一律の法人税減税がもはや景気対策にならない事は明らかだったはずだ。結果的には、その穴埋めとして消費税増税分は使われてしまうだけで、「福祉目的の消費税増税」が実際はそうなっていないのだけでなく、本音のはずだった「財政再建のための消費税増税」にすらなっていない状態である。そしてそれは正当な事だろうか。

 

  その法人税減税のために、過去の消費税導入とその後の消費税増税で得られた増税収分を、法人税減税分にほぼ相殺されるようにつぎ込み、結果として財政が好転する訳でもなくむしろ極めて国内消費を減ずる結果となるのが目に見えている消費税を増税した事で、景気は「実感なき景気回復」や「好景気だと言われているのに実質賃金がほとんど上がらない」といった、奇妙な状態を生じさせ、結局は国内消費を増やした要因の大きな一つは、資産バブルによる「可処分所得はほとんど増えていないのに、それに対してプラス、キャピタルゲインによる実現益での収入増での使えるお金の増加」と「低金利政策による銀行の資金調達のしやすさと低コストと、バブルによる、金融機関の無担保融資ないし脆弱な担保価値しかないのにも関わらず行われた過剰融資で生まれた消費」というものが、実際の姿の少なくない面を表わしているのではないだろうか。だとしたら、「景気回復のための法人税減税は内部留保を生み出すばかりで、労働分配に回らずその割合はむしろ減った」「財政再建のため税収を補うはずの消費税増税は、法人税減税による減収分をほぼ相殺してしまう形になり税収増にはほぼならず、その極めて強い負の面である消費の大幅な落ち込みが起きた」「ヘリコプターマネーと減税の受益者は、法人税減税と低金利による資金流入での資産インフレによるバブルが起きた恩恵を受ける大企業と、その株式を保有し配当を受ける株主」となってしまって、行われた巨大な行為に対して、巨大な犠牲を必要としたのに対して、得られたのは「貧富の格差拡大」でしか無いのではないか。

 

  そうだとしたら、このような結果は、とても正常な景気循環の結果とは言えないのではないか。このような金融政策や財政を行えば、どのような事になるかは、すでに経験がなされていた欧米の事例を見れば、トリクルダウンなどは起きる事はなく、ストックへと流れて資金が回らず結果として富裕層の資産や企業の内部留保が増大してくばかりなのは、明らかだったはずではないだろうか。

 

  まして日本は20~30年前に経験したはずのバブルを経験しているのに、以前のバブルのような二の舞に加え、さらに付け加わった新要素としては、消費を輪をかけ悪化させるような消費税増税を行ったり、また新自由主義の一環として、規制緩和という名で不安定雇用を生み出したり本来競争で行う事に適さない事に対して民営化を行い、サービスの質の悪化と量としてのサービス価格の上昇などが起きる事が明らかなのにもかかわらず行った事は、あまりに「やってみなければ結果が分からないから」というには、先例と経験があり、十分過ぎるほど予見できた事ではないか。

 

  少なくとも言えるのは、得られたものに対して、失ったものとこれから失われると予想されるものを考えると、あまりに割に合わないだろうという事と、このような危険性の大きさに対して計画の実現可能性が、まだ理論的なものに過ぎない事を、当時から多くの人達に指摘されていて、とても予見可能性が低かったとは個人的には思えない。もしも予見可能だったとして、その上で「それでも、もしも大きな犠牲を払ったのにもかかわらず大失敗に終わったとしても構わない」と思ってやったのなら、「日本の利益になる事」「国民が幸福になる事」に対して「それに反する危険を冒してもいい」という事になってしまう。仮にその「大義」が、「日本の利益になる事」「国民が幸福になる事」と主張するとするとしても、まさか「小の虫を殺して大の虫を助ける」というのでしょうか。

 

 

  さらにいえば、もしも国民や国としての犠牲があっても構わないという心理で行ったのならば、戦前に日中戦争、太平洋戦争に突入した時のような、あまりの無責任さに近くとても「過失」とは言えないのではないだろうか。このように言うと、「何でも戦前と結びつけ批判する」と思われるかもしれないが、無責任さの構図では、類似していないだろうか?89年のバブル崩壊とそれからの事を当時、「経済的な敗戦」と言っていた人がいたが、ある意味本当にこれからが敗戦に近い事になるのではないか、と思ってしまう。

 

【「左翼」な私から「反日」という言葉について考えてみた結果】

  実はこの記事を書く前の、数ヶ月前くらいに、安倍政権の政策というよりも、自民党の行ってきた政策について、「あとで論じたい事があり、あとで記事に載せます」と言っていた書こうとした記事があったのだが、それは、「少子高齢化は30年前の段階から予想されており、その少子高齢化の対策をほぼ行わず、また、少子化が加速する事が十分予見できた不安定雇用と低賃金雇用を、90代から00代に導入したのは、何故なのか」という事から書きだそうとした。だから、本来は安倍内閣アベノミクスがメインで書くつもりではなく、現在行われている政策というと、それらばかりを書いてしまったが、実のところ本当に書きたかったのは、この部分からだったりする。

 

  続けさせてもらえば、「30年前に高齢化が見込まれるというのにもかかわらず、使う人間がいなければ無意味に近くまた採算が取れずその後赤字を垂れ流し国債発行によって建設したなら必ず問題となる事が見込まれる、大型公共事業やハコモノを作るために、バブル崩壊前に200兆円台だった赤字国債の残高を、現在に至るまでそれら経済波及効果が産業連関から言っても建設業界関連以外は見込む事ができないのに、800兆円も赤字国債を発行し続けてきた」のは何故なのか、と書こうとした。

 

  そして、「何故、少子高齢化が見込まれていたのに、少子化対策というソフト面だけでなく、建設を行うのに何故高齢化で必要となるのが明らかに分かっていた公共の介護施設特別養護老人ホームや老人保険施設、そしてその運用のために必要なソフト面を育てるための介護士・看護師などスタッフの育成機関を作らなかったのか」と書こうとした。

 

  これを、「当時は分からなかった、結果は起きてみないと、結果的にしか分からない」と言う人がいるのも分かるが、しかしそれは30年前に長期的に見通しとして発表されていた事実があり、また、そのような大型公共事業やハコモノをした場合のその作ったものの生み出す利益と損失が、建設前に見積もられているのにもかかわらず行った事実があり、とてもそのような事は、とうてい正当化として言えるとは思えない。そしてさらにその後に引き続きそれに加えて、派遣法改正だったり、金銭的な面からそれこそ保育園などハード的な面までの母子についての支援だったり、そういう事をわざわざ行わずそれに反するような、少子化を悪化させてしまうような労働政策や文教政策や福祉政策を採ってきた事がある。何故なのか、と書こうとした。

 

  だが、そう問いかけておきながら申し訳ないが、その答えは、恐らくは一生、当事者である当時の政治家の心の中を読む事ができない限り、客観的な証拠など揃えられる事もなく、これから先も、仮に一部の証言があったとしても、完全な答えとしては得られないだろうと思う。

 

  ただ、「過去の海外の事例と自らの経験、そして学問的分析により統計、データによる見通し、そして各学問においてその理論からその結果になる事が、考えられる他の可能性よりも高い事」があるのにも関わらず、「しかし、それをした。」というのは、アベノミクスがメインになってしまったが、安倍内閣についてというより、自民党による途中短い期間途切れる事はあって自民党政権がほぼ連続して続いていたのにもかかわらず、予見されていたのに対策をしないどころか悪化をさせていくばかりの事を数十年続けて今に至るのは、とても「国の利益になる事」とも、まして「国民が幸福になる事」とも到底言えないものではないかと思ってしまう。

 

(実は先述した記事に書こうと思っていた事というのは、「あまりに、意図的にすら思えるほどの、日本国が衰退する事が見込まれ、しかも結果的に実際に衰退している政策」で、「本当に意図的だったとしか思えない」という結論の記事だったりするが、感情的結論で論理性のないものなので、カッコ内に「そういうのを書こうかと悩んでいました」と書かせて頂くのみにする)

 

  長くなったが、「日本の利益になる事」「国民が幸福になる事」という事に反する事を「反日」と考えるとするなら、一体何がそれに当たるのだろうか。国防を高める事が正しく、高めない事が間違いだ、というならば、「国防」とは何か、という事がまず問題になってしまう。先述の戦前の例では、最初は征韓論などが言われたのは、ロシアの港が目の前にできてしまう事への危機感から、という事だったと聞いている。しかし、その後、朝鮮半島を防衛するためには縦深が必要だという考えが出てきて、また利益にもなるということで、満州に侵攻して満州国を作ってしまった。さらにその満州国の防衛のために必要だと、日中戦争まで起きてしまったと聴く。その結果、アメリカ側からの経済制裁に対する自衛行為だといい太平洋戦争が起きてしまった。そのように、軍備拡張を主張する事がイコール愛国でもなく、平和を主張する事が反日という訳ではないはずで、しかもその点のみをそのような単純に国防を唱えるか平和を唱えるかで分けてしまっては、それ以外の点の問題が見ないで盲目になってしまう危険性がある。

 

  先述のように、現代についての今ある状況について言えば、実際、かなり前から予想されていた上に警鐘がならされていたのにも関わらず、予見可能性が低かったとは言えないのではないか、むしろ予見可能性はあっただろうという事を考えると、そう予見できた上で、「必要な国民や国の犠牲は大きいかもしれないし、得られる結果にならないかもしれないが、でも、やる。」という思考は、それこそ批判されるべき事だったのではないか。

 

  繰り返しになって申し訳ないが、正直、ネットでは、外交…というには、国防に偏り過ぎている外交と、国防を論じてるから問題ないとかいう思考停止はもうやめないだろうか?現在、かつて左派を批判というか攻撃していた人がいて、それらの人々は政策的に絶対反対だと主張してきた移民が、今実質的に導入する事になりつつあるが、あらゆる面からいって、本当に日本は終わりかねないのに、何故それには疑問を抱かないのだろう?

 

  「国が滅んでしまったら、他の事は全て終わりになるのだから、国防が一番最優先にされるのは当然だ」という主張も分かるが、別に国防を辞めろなんて言う人は、今は少なくとも既存政党では、どこも無い状態である。問題は、その「国防」とは何かという事と、そしてその程度だろう。

 

  仮にもし、一番最初に先述した、「日本の利益になる事」「国民が幸福になる事」の反対の言葉が「反日」という言葉の意味だとするならば、その意味で考えるとどうなるのか。国防を論じていれば保守である、愛国であると考え、それ以外の事についての問題を見ない事は、極めて危険な事でもあり、また、それは決して「日本の利益になる」「国民の幸せになる」ような行為にはならないのではないか。そういう単語を使う人達を見て「反日」とは何かと考えると、そう思ってしまう。

 

(ちなみに、「。」など句読点に国語的に誤りがあるが、わざとそう書かせて頂いたのは、恐らくは「日本を、取り戻す。」とかの用法を真似ただけである)