天賦人権論と自己責任論

 自民党のやたらネトウヨさんの言葉を真に受けネットのデマに踊らされるのに定評のある、片山さつき女史ですが、自民党憲法改正草案において、現行憲法

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第十章 最高法規
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

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という条項を丸ごと削除したことについて、以下のように述べています。

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国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるかを皆が考えるような文にしました!

https://twitter.com/katayama_s/st

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 ・・・とおっしゃっていますが、ケネディの「あなたの国があなたのために何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるのかを問うてほしい」という言葉を真似してかっこいいと思って言葉を使われたのかもしれませんが、憲法第12条の原則と憲法97条の原理は、まさに人権保障をなすものの根幹です。ケネディが言ったのは行き過ぎた行政と過度な社会的要求に対して述べただけで、現在、憲法も労働法も商法も民法も様々な刑法も守られていないで、年間自殺者を3万人出しているような、酷い行政や国家にそんなことを言われても、ふざけるなとしか言葉が出ないでしょう。


 ここで問題となるのは、人権というものが、ノモス的(社会的)なものか、ピュシス的(自然に備わった)なものか、それが論点になりますが、ピュシス的である自然権の思想に対し、そのような自然状況はなかったと勝ち誇ったようにいう人がいますが、逆に国家が人権を与えているというノモス的な解釈に関して、では国家権力の正統性はどこから来ているのか、正統性がないなら国家権力に従う必要などなく、人権など生まれないのではないか、という反論があります。


 これに対して、国家が国民を保護するようなパターナリズム的な言説がなされる事がありますが、そもそも国民が国家の介入を受けずに市民社会で問題解決をなしうるし市民社会で解決するべきだ、という、本来の意味の市民社会本位のアナーキズム的な理想論があります。アナーキズムだからと毛嫌いせず、その主張だけ考えてみると、市民社会で問題を解決するのが普通であって、その市民社会で問題が解決できない時の代行的な「権限を持つ力(権力)」を想定するのが、国家の始まりではないでしょうか。


 片山さつき女史は少なくとも歴史的な経緯で、そのような市民社会自然権のあった時代はなかった、だから日本は歴史に沿って政治的権威でもある天皇家を中心とした社会にすべきだ、という言説が出てくるのでしょうが、本当に日本にリヴァイアサン的強制力を認め自然権を譲渡して、時の政治権力に従ったのがないかと言えば、ムラの時代から自由都市の時代まで、少なくとも「万人の万人に対する闘争」に陥らないために、政治的権威、権力として天皇ご一族を奉った、というのは、日本的な自然権の譲渡であったと思います。


 その後、明治維新で近代国家ができ、そしてそれこそ自然権思想で起きた民権運動で、選挙権の範囲を徐々に広げいていったのは、そのように当時の政治的権威たる天皇家の方々への自然権の譲渡がまずあったと思います。その後、「明治政府」というものに自然権を委託されていた明治政府が、男子普通選挙制まで到達して国民の自然権を信託された事になったのは、当時の民権運動から大正デモクラシーから明らかだと思います。


 そのように、自然権思想は海外からの輸入で進展が早まりましたが、どの社会でも一定程度の社会レベルに達すると必要とされる概念であり、日本は自然権になじまないというような事はないはずだと言うこと、ピュシス的、近代の場合ではポリティカルサイエンス的なものや、歴史発展論などで語られる文脈に日本もあるので、日本だけが「日本の文化だから」と天賦人権論などを始めとする社会契約論に対して特別な事ではないこと、というのが言えるのではないでしょうか。


 また、天賦人権論で異論として言われる事として多いのは、天賦人権論は「天」と書くように、キリスト教とその神の下での平等を宗教改革で行われたため、欧州では文字通り神が与えた権利であると思われていたので、非キリスト教国である日本は関係ない、と思われるかもしれません。しかし、「法の下の平等」というのは、確かにキリスト教圏で通じやすい事ではありますが、それを否定する正統性妥当性を持った論理が存在せず、その妥当性を正統性を持って主張できる人がいないという事から、キリスト教圏内の特殊な思想というわけではないと言えるかと思います。
(もちろん、キリスト教の影響が極めて大きいのは存じておりますが)


 片山さつき女史のように勘違いした国家主義者・・・というか、新自由主義で国家以外のコミュニティを全て破壊して国家に帰属させようとする人は、よくケネディの言葉を引用したがり、権利には義務が伴うと言いますが、人権というものが人間存在の本質として、人間性において内在的に存在する尊重しあう権利であることを誤解されていると思います。
新自由主義的な国家主義者が言いたいのは、「貴方が権利を享受できないのは、貴方が義務を果たさず努力しなかったからです」という自己責任論に持って行きたいのでしょうね。


 しかし、そうではない、本来受けられるはずだった権利、例えば高等教育を受ける権利などを社会的に経済的に求められても応じられずやむを得ず断念した、という方もいらっしゃるのに、新自由主義者国家主義者はそれでも「権利は義務を果たさねば得られない、貴方は義務を努力を払ってないから権利は与えない!」と言い続けるのでしょうか。


 おそらくそのような社会になったなら、今まで社会政策で防止していた様々な不幸が表面化して、社会が大混乱するかと思います。ちなみに国防意識が強い国家はものの見事に北欧の福祉大国がトップを占めました。社会から自己責任だと見捨てられた方々が、「権利が欲しいなら義務を果たせ」と言われて徴兵義務も含め様々な義務を課された時、
果たしてどう思われるか、片山さんはどう想像されていらっしゃるのでしょうか。


○後記
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