あるTwitter初心者のつぶやき


  ある人に勧められてTwitterを初めて、少し経ちましたが、
ブログ、Twitterともども、どちらも長い間、放置気味で大変申し訳ありませんでした。
Twitterというものを理解するのに少々時間がかかりましたが、
今のところ、私なりの理解をできているのではないかと思います。

  Twitterとは「つぶやき」ですが、最初そう意味するとは聴いていましたが、
その意味がよく分かりませんでした。facebookmixiなどアカウントで
制限があるならともかく、Google検索で検索すらできてしまう状態で、
フォローを許可していない相手も含めた不特定多数の人々「つぶやく」というのは、
正直「個人情報的なものを今の時代、mixiなどですら不安なのに、そのように
気楽に書けるものではないはずで、利用している人はなぜその不安を理解した上でも
利用するのだろう」「Google検索でひっかかるので個人情報的なものが書けないのに、
日常的なことをつぶやくとは、何をつぶやけばいいのだろう。例えば友達や家族との
ことにしても、地名やその人の名を出さなければならないし、それをしないとすれば、
つぶやけることはほとんどないのでは」「結局、芸能人や政治家、企業経営者、学者、
知識人など公的立場にある人々がつぶやいたのを、眺めるものなのだろう」
と、Twitterについて考え、それが先入観になり、利用をせずにいました。


  お話が変わって、人間の心とは、もしもお互いが理解し合えるのならば、
素晴らしい世界を築けるであろうものなのではないか、というのが、
私の人間性論の持論です。「それは性善説でリアリティがないのではないか」
とおっしゃられる方がいらっしゃるのは当然よく分かりますが、
あくまで私の申し上げているのは、「心」の問題で、仮にもしもそれだけが
存在できて、そしてそれがコミュニケイトするならば、のあくまで
仮想モデルでのお話です。実際、人間は普通に自分の「心」を理解してもらえるのが
とても嬉しい喜びであるのは、体験された方もいらっしゃって同意して下さるのでは
ないのかなと思います。


  では実際の現実世界はどうかといえば、そうはいかない様々な問題があります。
何よりもまず制約となるのは、「肉体」ではないかと思います。
それは、私たちはランダムに割り当てられる「肉体」に縛られ、能力差や差異や
心ではなく大脳生理学的な差異を持っているというのと、その「肉体」が
心で思っている事を正確に表現できているとは限らない、といった問題があります。
極端な例では、歯が痛くてしかめっ面をしているのを、相手は怒っていると勘違いする、
逆もまた同じで、相手が歯が痛くてしかめっ面しているのを、相手を怒らせたと勘違いして
へこむ、といった例があると思います。


  そして「肉体」で声に出すなどして相手に伝える、表情に出す、行為をして表す、
などをしない限りは、「心」で思っている事がいくらあっても、相手には届かず、
というよりも知るよしがない、といった形での「不理解」が生じ、
そのために人間は様々な「誤解」や「行き違い」などの苦しみを感じるのでは
ないのかな、と思います。


  やや抽象的なお話になってしまいましたが、「肉体」を持った、実際の人間関係は、
そのように、例えば思った事を伝えたくても言い出せなかったり、うまく表現できなかったり、
生活空間は必ずしも「話すのが前提な場」ではないので、誤解が生まれ、誤解を生み、
疑心暗鬼や人間不信など、様々な不幸を生み出してしまいがちなのでは、と思います。
その結果、私たち人間は「自分を理解してくれる人が自分だけだという圧倒的『孤独』」
にさいなまれてしまっているのではないか、と思います。


  そして、その問題がさらに深刻化した場合は、人間は、物理的に、
つまり「肉体」と「肉体」に隔てられ、私はここに「いる」が、他人はそこに「いる」、
と違う存在としてあるわけですが、例えば幼少期が一番大きいですが、
思春期とそれ以降の経験も含めた経験などで、「肉体」を持つ「自分という心」が、
他者という「肉体」が声や表情といった形で自分に伝えてくる事が、傷つける、
否定する、拒絶する、裏切るものばかりだったとすると、
人間は、カレン・ホーナイの言葉をうろ覚えで自己解釈でお借りしていうならば、
自分の「心」の外の世界とは自分を傷つけるだけの残酷な世界であり、
自分を理解する存在、愛してくれる存在はいない、といった「原初的不信感」
「原初的怒り」「原初的絶望」といった「基底不安」を抱くようになってしまいます。


  そして、それは、「共感可能性」について、「共感可能性のある存在しない」
といった絶望的確信を持つことになり、その結果、極端に表現すれば、無意識的にでも
自分以外は「物理的にそこに『ある』、刺激とその刺激に反応を返すタンパク質」
という、『他者との共感可能性の否定と、それゆえの他者の「モノ化」』に至り、
その人は「完全な孤独」と「他者という『モノ』を扱う自由」を、「リアリズム」という
単語などで自己表現して思うようになるのでは、と思います。


  そのように無意識的にみなすことで、「自分と同じように心を持つ他者は存在しない」
と思うからこそ、私たちの生きる現実世界においては、他人を道具として用いる人、
楽しんで人を傷つける人、もしくは傷つけられた傷つける権利がある、
という同態復讐法での正当化論理で思う人、などが当然ながら生まれるという、
この世界の悲劇があります。


  他者の「モノ化」、つまり、自分と同じ他者は存在しない、と思うのは、
私たちがコミュニケーションをしない限りは、「他者」という「肉体の中にある心」の
存在を認識できず、かつ、私たちがコミュニケーションをそもそも行うか、
という、共通了解可能性が必要かと思います。この、コミュニケーションと共通了承とは
「話すこと」ではなく、相互理解を行う努力をすること、を意味します。


  コミュニケーションの可能性を追求している第一人者であるユルゲン・ハーバーマスは、
私などよりはるかに深い洞察をされていらっしゃるので、そちらの御著書を
ご参考頂くのが一番ですが、先述の個人的経験からの基底不安などによる
人間の「モノ化」もありますが、社会哲学者であるハーバーマスは、
人間が他者と行う主に言語的相互行為として、「コミュニケーション的行為」と
「戦略的行為」の二つに分けて論じていますが、「戦略的行為」とは簡単に申し上げますと、
文明の発達により複雑化した社会システムの運営上などで、他者を道具・手段として
目的合理的に利用するための、「命令」だったり「通達」であったり「取引・契約」であったり
することです。


  ハーバーマスは、その中で「コミュニケーション的行為」、すなわち、
人間相互が相互理解を努力する前提で相互理解しようとコミュニケーション
することの重要性を何よりも主張していますが、現実社会をよりよくするための
現実的方策として主張しているハーバーマスは、人間の「モノ化」などによる
「戦略的行為」は社会システムを動かすために必要なものであり、
否定できず、『コミュニケーション的行為』のみでは成り立たない、という立場で、
とても現実主義的で、プラクティカルな内容を主張しています。


  しかし、私個人としては、インターネットを利用するようになってだいぶ経ちますが、
インターネットが先述のような、「肉体」から解放され、「心」だけで疎通できるかも
しれないもの、ということを始めた時に希望を抱いた事がありました。
それはインターネットの場においては、掲示板、チャット、そしてTwitterという
「コミュニケーションするための場」においては、たいていの人は趣味や楽しみでしていて、
社会システムを動かすためや、自己利益の追求のために、その場でコミュニケーション
をしようとしているわけでは、たいていの人の場合はないのではないか、と思ったのがありました。


  もちろん、先述したような、基底不安的なものがあり、「他者をモノ化」している人の中で、
煽るなど「刺激」をすると、面白い「反応」を返す、「刺激とその反応を楽しめるモノがいる場」
というような感じで、掲示板やチャット、Twitterなどのコミュニケーションツールを
使っている人がいるのは、当然ながら否定しません。しかしながら、インターネットが普及して
15年経った今ですらも、多くの人は失望をしたり傷ついたりしながらも、そういった
コミュニケーションの場を求めるのは、先述させて頂いたように、
「圧倒的孤独」の苦しみがあるからこそではないか、と個人的には思います。


  そうだとするならば、Twitterというものが何故ここまで社会に
受け入れられているか、をTwitterを行って経験してそれを私なりに考えてみると、
Twitterは「つぶやき」という孤独な行為だと先述しましたが、
それは「自分を理解して欲しい」「受け入れて欲しい」という想いからの、
「戦略的行為」など社会システムの複雑化により「モノ化」された自分、
また相手を「モノ化」している自分が陥っている孤独の苦しみにおいて、
コミュニケーション的行為を求める「救難信号」であり、そしてその信号は
インターネットで繋がるTwitterの世界の人々が受け取れて、
肯定的なものにせよ否定的なものにせよ、「なるほど、私はこう思った」と
ボールが返してくれる人がいるかもしれない、という希望の場なのかもしれません。


  そしてそれは、そのような「コミュニケーション的行為を求める人々が多い場」で、
かつ文字なりボイスなり、何かしらの方法で、自分の「心」を発話をしてもいい場、
現実世界のように、発話していい場なのか分からないという事がない場、発話しなくても
現実世界でその中で黙っていると気まずいのとは異なって、ROMして眺めて
気にとまったことがあったら、その時発話したり、しないでROMしたまま眺めたりできる、
コミュニケーション的行為の世界を、相互的でなく片務的に気軽に覗きみることが
できる場、という特殊性があるのだなと個人的には思うのが一つあります。


そしてさらにTwitterに関しての特殊性をいえば、掲示板やチャット、
HPやブログなどの場の場合、主張や会話などのような、他者を前提として構成しなければならず、
感情的、気持ち的なことを一方的になど吐露することは、すべきでないとされるいる場と、
インターネット上の了解としてあるものだと思いますが、Twitterはその場合と異なり、
それは「つぶやき」であり、「心」が純粋に吐露されるのが目的の場で、
その吐露されたものに、もしも応答があって、理解してくれる人がいるのならば、
それは最初の方で述べさせて頂いたような素晴らしい感動をその人は感じられるのでは
ないのかな、と思います。


  そのようにtwitterの段階ではまだ、「自分の心のつぶやきを理解してくれる人がいる
喜び、感動」という片務的なもので、双務的な相互理解ができるのが保証される場ではない
ということがあるとは思いますが、少なくとも、孤独化した個人がその喜びを感じられるなら、
それは確かに革命的な場なのではないかな、と個人的には思います。


  双務的な相互理解が完璧にできる場、というのはなかなか難しく、思いつきませんが、
インターネット上の言論空間とは「コミュニケーション的行為のみが存在しうる
現代のユートピア」として、人々は希望を抱かざるを得ないくらいの魅力ある場であり、、
インターネットを利用しはじめてだいぶ経ちますが、私はTwitterを利用して
そのような以前考えたこともあったけど、Twitterはそのユートピアを部分的にせよ
片務的に実現できたりする事があるからこそ、普及しているのかもしれない、と
インターネット秘める可能性について、再び個人的に考えてさせられてしまいました。


AX



○後記
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