ロベスピエールとルソーのユートピア思想とその差異



 理想主義、ユートピアニズムは20世紀のロシア革命など、様々な功罪を
生み出してきましたが、ユートピアという単語自体は、トマス=モアの造語で、
そこからがユートピア文学の始まりだといわれているかと思います。
しかし、思想としての理想主義、ユートピアニズムは、古くはプラトンの時代から
存在しており、現在も継続中ではあります。その人類の長い歴史の中で、
特に、ユートピアニズムの盛んになったのは、一つは社会契約説の誕生からの、
民主主義思想の開花、そして、産業革命以後の社会主義思想の発達の2つが、
少なくとも第二次世界大戦以前まではあったかと思います。


 その中で、社会契約説の論者として有名なジャン=ジャック=ルソーが政治思想史上で
取り上げられますが、彼の影響を受けたとされる、フランス革命における「狂気の独裁者」として、
少なくともあまり肯定的には評されておらず、フランス革命という歴史における登場人物としか
描かれていない、マクシミリアン=ロベスピエールユートピアニズムが、歴史的には
存在していると思います。その両者の思想は、確かに類似する面がある一方、
決定的な差異があり、それによって、フランス革命という思想の具現化において、
ロベスピエールは過ちを犯し、そして人々を大量処刑にするという、「狂気の独裁者」へと
なったのではないかと思います。

 しかし、否定的に描かれるロベスピエールの思想について、彼とルソーとの類似する面、
そして、決定的に違う点について考察することは、現実政治におけるユートピアニズムのあり方を
考える上で必要ではないか、と思います。


 ロベスピエールは1758年生まれの法曹家出身の政治家ですが、
思想的にはルソーの影響を色濃く受けた人物で、そのルソーの人権、民主主義、
なにより「自由」と「平等」を、求めていて、実際、ロベスピエールが後に志向した事は、
ルソーの「政治的共同体は同時に道徳的共同体でなければならない」という思想に
極めて一見類似したものではありましたが、実際のところは、ルソーの自由概念、
平等概念とは、ある意味では類似し、ある意味では似て非なる、
彼の独自的解釈と独自的思想がありました。

 ルソーのテクストでは、確かにロベスピエールのように、自然権は生来のものと
しても、実際の市民的自由は、共同体の法によって規定されると考えていました。
しかし、それと同時に、それは、その共同体、「共和国」においての市民の
「道徳的自由」に基づく市民による法の自己決定によらねばならない、
という、「共和主義」、というよりも、「市民が『道徳的自由』に基づく共同体の
『法の自己決定』を前提とした上での共同体主義」という、能動的市民による
平等主義、民主主義がその内容でした。

 そして、ロベスピエールが確実に影響を受け、かつ間違った解釈をしたであろう
ものとして、「カソリックを主とした、キリスト教思想の批判」がありました。
それは、一見、ロベスピエールの主張に似ていて、まったく非なるものなのですが、
つまり、「人間は『原罪』を負う故に、人間は不完全な存在であり、ゆえに
人間の不完全さを矯正するため、神の目的への奉仕をすべきであり、それでしか、
人間は救われず、政治などでは決して人間は根本的には救われない」という
当時のカソリックを主としたキリスト教思想に対し、ルソーは「原罪」を否定して、
人間の自然的善性の存在を信頼し、ゆえに人間はキリスト教を通した受動的救済
ではなく、道徳的自由により自然的善性の発露に基づく人間の共同体の法の自己決定での、
人間の能動的な、具体的には共同体という、政治に基づく人間の『自由』と『平等』」
をなにより訴えていました。その結果としての、ルソーの「市民宗教」という、
既存の受動的救済というキリスト教思想に対抗した、「人間の自然的善性を信じ、
それによる自由と平等を達成する、道徳的自由に基づいた市民による自己決定による、
倫理的信仰の確立」を提唱しました。

 翻ってロベスピエールの主張はどうだったか、といえば、確かにロベスピエールは、
初期には確かにルソーの思想を信念とし、人間の自然的善性を信じていました。
そのため、元々判事、弁護士であった法曹家の時や、国民公会での初期の主張は、
人権派として、死刑廃止法案の提出、それまでのフランス刑法において行われていた、
犯罪者の家族も罰するという事を廃止し禁止する法案の提出や、当時行っていた
フランス政府の対外戦争への反戦の主張など、「人権への信念」「人々を救いたいという気持ち」
は確かにありました。

 しかし、ロベスピエールは、自らの理想、「自由」と「平等」のために、
市民の自己決定の間接的方法としての、国民代表制に基づく国民公会から、
自らの「理想」に異議を唱え反対する議員、会派を、「公安委員会」や「保安委員会」
による大量逮捕と、「革命裁判所」による大量処刑を行い、「自分が人民のための
政治を行うためには、市民の自己決定としての国民代表であった反対派議員や、
もしくは反対派そのものは『人民の敵』であり、排除しても、人民のための
政治を私は行うのだから、これは必要な事だ」という、「『大義』のための小義として、
大義が達成されるまで』の民主主義の否定や『人民の敵』という『悪』に対する
処刑、そして『悪』の思想や宗教の禁止の正当性の信念」を持ち、自らの行っている
恐怖政治の「恐怖」を「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」として、
『人民のために』必要な大義であると信じ込んでいました。

 そして、先ほど申し上げた、「キリスト教など宗教の否定」ですが、
これはルソーの「市民宗教」に一見似ていて、まったく非なるもので、
「人間の理性が、能動的に主体として構築した、『至高の存在』への信仰」、
言い換えれば、「理性中心主義に基づいた『倫理』『正義』への信仰」を
主張しました。この、理性中心主義とは、一見ルソーに似ていますが、
それとは異なるのは、ルソーが「人間の自然的善性に基づく、自己決定による
能動的な『道徳律、共同体倫理としての法』」としていたのに対し、
ロベスピエールの「至高の存在」への信仰という「世界宗教」という概念は、
あくまで「『人間存在』の理性」の主体的能動によるものであり、
「『実在する共同体内の市民』の自然的善性を信じた道徳的自由による能動的な
倫理、道徳の確立」ではなかった、という決定的な違いがあります。

 しかしながら、残念ながら、ロベスピエールがルソーを誤解していたか、
というと、実際のところ、ルソー自身は、「共同体の市民の自然的善性への
信頼による、道徳的自由での法の自己決定」だとして、何度も断りを
入れているのにも関わらず、「社会契約論」を始めとしたルソーのテクスト
の中においては、市民個々人の持つ、「個別意思」に対し、自然的善性を
持つ市民たちが作る共同体の法とは、人間の持つ自然的善性の平等性がゆえに、
「一般意志」として一致し、ゆえに「共同体の一般意志は、個別意思に優越し、
市民は、『自由であるようにするために、(一般意志を)強制される』として、
結局は「一般意志」という、ロベスピエールの信じていた「理性中心主義に基づき、
人間理性というものがたどり着く倫理的帰結としての全体意思への人民の服従義務」
という思想と、結局は一致するという意味で、ある意味では確かにディテールや論証自体は
似て非なるものなのですが、「結論」は極めて似通っている、という、事になるかと
思います。

  両者に共通しているのは、「『異質』な『他者』のいない共同体」、
もっといえば、「『在る人間』ではなく、『在るべき人間』の平等な『共和国』」
という、「在るがままの人間」ではなく、「在るべき人間」に基づく政治とは、
実際のユートピア思想、もしくはユートピア思想に名を借りた、
全体主義思想統制の正当化」において、見られてきたようなものかと思います。


 ルソーとロベスピエール決定的な違いがあるとすれば、ルソーは、「一般意志は市民が最終的に
合意できるもので、かつ、一般意志には服従しなければならないが、その一般意志と服従義務を求める決定の
政治プロセスとしての、民主主義、もしくは共和主義による手続的正義がなければならない」
という、自由主義的民主主義ではないにしろ、全体主義的民主主義という意味での
民主主義者であったということがありますが、ロベスピエールの場合は、
「人間理性の帰結としての正義、倫理があり、それを規定する事は『今現在は』人民は
『人民の敵』による惑わしなどによって『正しい』政治判断を行えないので、
恐怖政治によって服従義務を履行させる」という、理性中心主義による独裁の正当化という、
フランス革命のこのロベスピエール自身の行った、
「『大義』のための非民主的手段によるユートピアの実現」という政治志向は、
その後の、大きな例ではロシア革命とその後の暴力革命主義的な一部の共産主義運動や、
もしくは、極左の例がわかりやすかったですが、極右では、古典的には
「小義の切り捨て」とは違いますが、もっと原始的な、「『大義』は大衆は理解できず、
衆愚政になる、という、専制君主や君主への服従義務による強権的保守主義による
パターナリズム運動」から、それに似ていますが、
「『大義』が絶対的であり、民主主義などは『小義』どころが害悪でしかない」
という、現代ファシズム運動があるかと思います。


 お話が逸れましたが、そのように「自分の主張、ないし、支持している
思想や掲げられている体制が、今は大衆は理解できないだろうが、最終的には
全員が帰結し全員に正しい倫理であるのだ」という、独善主義、ないし、
多元主義の否定」というものは、右翼左翼の問題というよりも、自由主義的民主主義、
もっといえば、散々お話が逸れて、ようやく戻らせて頂きますが、
「人間の『多様性』と、個人の自由な『人間性』の尊重」
という、民主主義の根源的思想の欠如によるものであり、
そのような、「個人の自由意思を無視したパターナリズム」に基づく、
「多様な人間存在の否定」とその結果としての「多様、多元的な文化の否定」の恐怖と、
そのために「個人の自由な人間性の尊重」の意味を考えずにユートピアを求める事は、
極めて危険なことではないかと思います。そのような、「非原子論的個人概念」の尊重の
欠如こそが、近代ユートピアニズムにおける問題点であり、私たち現代は、
だからといってユートピアニズムは危険だと否定をするのではなく、
それを乗り越えた、新たなユートピアニズムを模索することが大事なのではないかと
個人的には思います。


○後書き


  確かに、「非原子論的個人概念」での「自由」と「平等」の対立はあり、
それがあるからこそ、平等主義を志向するユートピアニズムは「自由」に対して
制限的になりがちなのかもしれませんが、しかし正確に言えば、その「自由」と「平等」とは
「経済的自由」と「社会的平等」の対立であり、その点で、
本来は「自由」とは、「経済的自由」や「精神的自由」のような、
古典的な「国家からの自由」だけではなく、現代自由主義においては、
参政権が主ですが現代では政治に限らず社会一般への参加など「国家への自由」や、
いわゆる累進課税と福祉政策による経済的格差の『縮小、緩和』などが例の、
パターナリズムでない意味の範囲内に限りますが、「国家による自由」が
「自由」だからといって否定されるべきではないのは、
「国家からの自由」や「国家への自由」など、形式的平等や形式的自由が
認められていても、社会的不平等があると、空虚な形式的平等や形式的自由
にしかならず、実質的に社会的に自由に平等で生きるというためには、
実質的平等や実質的自由が必要だという事があります。


 例えば貧乏な家庭環境に生まれた子供は、そのままの形式的自由や形式的平等なら、
理論上は公立学校に通い、図書館で本を借りて自学で勉強して、学費はアルバイトなどで
お金を貯めるか、『努力』して勉強をして特待生になればいいじゃないか、
という人も新自由主義者の中などでいまだにいますが、他方、裕福な家庭の子供は、
進学塾に通って私立学校で恵まれた教育を受け、学費を気にせず私立大学に入る、
極端な例では、お金を積んで一流私立大学の付属である幼稚園や小学校にお金を積んで
入学して、あとはエスカレーターでたいして勉強せず一流私立大学を
卒業する、という不正、ないし不公正な現状がある例などがわかりやすい
かと思います。その他、単位あたりの賃金の安い労働者は長時間労働
しなければ生活できず、「参政権」などあっても、生活に手一杯で政治を考える
余裕もなく、またその政治的判断を行うための情報を得る手段が、
時間的、経済的に限られる、ということなどが例、要は「機会の平等など実質的平等」
による「実質的自由」の必要性の例としてあるかと思います。


AX



○後記
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