人間を含む完全体のクローンを製造することは悪い事か


○はじめに


 クローン問題は難しい問題だが、この議論の対象である人間の完全体のクローンの製造については、
あまり賛否両論に分かれず反対の方が多いだろう。しかし、最近クローンに対して
否定的ではなく肯定的な作品が見られる中、それを否定する事ができるのか、
考える事は重要なことではないかと思う。


○人間以外の動物のクローンは是か非か


 まず、人間以外のクローンに関する是非を考えると、良質な食肉、牛乳、優れたサラブレッド、
そういったものを求めるためにクローンに肯定的な意見があるのは実際のところだと思う。
だが人間以外ならクローンを作って良いのか、人間だけ何故特別なのか、という事に関しては、
様々な意見があるのも事実で、実際「アニマルライツ」として、動物の権利を認めようという
考えの場合は、人間が人間でないからといって、自らの欲望のためにクローンを製造するのは
間違ってると思うのは、当然ではないかと思う。


 クローン以前にそれ以前に人間以外の動物を殺しても、動物愛護法などの制限ができたにしても、
殺した事が責められないのは、確かに動物の権利を主張する人には納得がいかないのは分かるが、
しかしアニマルライツを完全に認めると人類の文明は成り立たなくなってしまう。
それではクローンの場合はどうだろうか。


 そこで仮に人間が動物と違うのは、理性がある存在だから、知的高等生物だから、
と主張される事があるが、では生物学的に人間並みに知性があると予想される
クジラやイルカは殺していいのか、ということで、欧米の反捕鯨運動が
起きているのだと思う。


 しかし、仮にイルカやクジラが知的高等生物だとしても、コミュニケーションが
とれない存在であることで、「他者」と認知できないのが、一般的にそういった運動に
懐疑的な人々の心情としてあるのではないか。実際コミュニケーションを図れない
知的高等生物だとされる存在が他者として認められるかに関しては、
コミュニケーション抜きには現実的でないと個人的に思う。


 コミュニケーションがもしも取る事ができるようになるまでは
理性的主体とは推定できないため、アニマルライツは制限せざるを得ない。
そして理性的主体の持つ、例えば人間の持つ「人間性」のようなものが、
推定されないとすれば、場合によっては、アニマルライツの限界から、
人間以外の動物のクローンは、もしそれが正しい目的であるならば、
正当なものと考える。


○人間に関するクローンの是非と古典的倫理学との問題


 そこで、逆に言えば人間は理性がありコミュニケーションがとれる知的高等生物
である、という事になり、ゆえに「他者」の殺害として殺人が不当なものだと主張できるが、
クローンに関して言えばどうだろうか。クローンなど生命倫理における難しい大きな問題としては、
それ以前、倫理学的に色々な倫理論は存在したが、基本的にJ=S=ミルの概念として、
「人間は他人に危害を及ぼさない範囲で、自分の事に関して自由な権利を持つ」というもので、
「己の欲せざる所他人に施すなかれ」が原理な自由概念があり、その自由の範囲に
様々な解釈、理論があるにせよ、「他人に危害を及ぼす事」という事で自由や悪の
問題に関して基礎ができていた。これは「最大多数の最大幸福」とも、
もしくはその内容の難しさから実効性のあるものとして提唱された、
「最小の不幸」を求める消極的功利主義などがあった。


 しかし、生命倫理の場合、「被害者がいない」という形が多く、
そういった古典的な正義論の概念が当てはまらなくなってきた。
クローンの権利にもよるが、仮に自然出生と同じ権利が与えられる場合、
被害を受けている人がおらず、「不幸の最小」についても不幸を与えるものではない、
といった問題があるように思え、従来の倫理学ではなかなか説明できない問題と
なってきている。


 ただ、これはクローンが自然出生と同じ権利を持っている場合に限る事で、
もしクローンが権利を持たない、むしろ何かしらの目的を持って製造された場合は
どうだろうか。


 人間が何かしらの目的や「道具」として、例えば遺伝子改造を含めてのクローンとして、
強化兵士として、無料の奴隷労働力として、または家庭用生体ロボットとして、
臓器摘出の母胎として、人間としての地位が認められない場合、まず人間のクローンに
人間性を認めない事の正当化根拠が問題となる。


 遺伝子改造が伴う場合は置いておいて、基本的に人間のクローンとして製造されての場合、
医学的には人間とほとんど変わらない存在で、それを「我々が製造したから我々の労働力だ」
とすることができるのか、といえば、自然出生か否かしか区別がないのなら、クローンの人権を
認めないことは自然出生のアフリカの黒人が奴隷として捕獲され働かせていた時代のように、
社会的な権利の認知ができてないだけで、本来的には人権があり不当だ、ということになり、
そのようなクローンの創造は断固として否定されるべきだと思う。


 しかしここで、遺伝子改造や古典的で後天的なのではロボトミーなどによって、
「クローン本人が生まれながらにして自分が不幸だと思えない精神状態で生きる」
となると、それまでの「最大多数の最大幸福」や「最小不幸社会論」など、
旧来説得力を持っていた功利主義的倫理が通じなくなってしまう。


○オルダス=ハクスリーの「素晴らしい新世界」というディストピア


 それに関しては20世紀初頭に描かれた、オルダス=ハックスリーの小説である「素晴らしい新世界」という
ディストピア小説に見れる問題が極めて参考になると思われる。「素晴らしい新世界」では、
まず28世紀、フォード紀元632年の世界が舞台だが、そこでは人々は全て幸福を享受している。
それは、出生段階で人間は人工授精として培養ビンの中で「製造」されて無差別に選別され、
アルファ階級、ベータ階級、ガンマー階級、デルタ階級、イプシロン階級と、順に従って支配力が
異なる階級ごとに身体能力も知能もあらかじめ差がつくように設計される。
そして幼児の段階から、各階級に合った自分が幸福であるという教育を受けて、
自らの階級に関する不満はなく、また階級ごとに存在する仕事は、その階級だからこそ
できるものとして、職業差別もなく人々が階級に不満を持つことはない。


 またそこにおいては人工授精でかつ無差別なので、アルファ階級が自分の子供を
アルファ階級にする、といった縁故主義などなく、またそもそも人工授精での製造で、
自由恋愛、フリーセックスが完全に行われて結婚と言った概念もなく、
子供は社会によって育てられる。


 また、不幸を運悪く感じた時は、配布されている「ソーマ」という完全に依存性や毒性のない
純粋な麻薬を飲む事によって、感じた不幸は完全に解消され、人々はみんなと一緒に生活し、
孤独を感じることはなく、隠し事が悪意もなく、嫉妬や悪意もなく、どの階級も階級の差はあっても
基本的に全員のために働いている「すばらしい世界」である。その世界に、「野蛮人」として
実験的にそういった制度から隔離されフォード歴に変わる前の私たちと変わらないような
生活をしていた、「野蛮人」がその社会を旅をすることになる。


 「野蛮人」は教養深く、シェイクスピアギリシャ悲劇など様々な
書物を読み、そういった作品が描かれて自分の住んでいた「蛮人保存地」で
暮らしていたことから、この社会でシェイクスピアや古典悲劇で描かれていたような
「人間が人間であること、憎悪や悲しみも存在するがその上で幸福を求める人間の人間性
に反するこの社会に対して、何故このような社会を認めるのか、とその未来社会の人々に
問いかける。


 しかし、一人のアルファ階級の長での対談で、人々は幸福で不快なことはソーマで
解消される、例えば最初に全員がアルファ階級なら問題が起きないかアルファ階級のみの
隔離区を作って実験を行ったが、すぐに内部抗争が始まって最終的に大きく人口を減らした後、
隔離区を中央政府に統治して欲しいと言ってきた、などの例のように、階級とは意味のある事で、
階級があるならば、階級で不幸になるよりも、階級にいるのが幸福だと思えるのが大事ではないか、
万が一不幸を感じたらソーマを一錠飲めばいい、みんな善良で平和で幸福な社会だ、と主張される。
そのようにシェイクスピアが描いたような人間が人間である事が世界から失われた事に絶望して、
最期のシーンでは「野蛮人」が首を吊って終わるという小説である。


 そのように、最大多数の最大幸福といった功利主義的アプローチでいえば、確かに
この「素晴らしい新世界」は幸福な世界で善になる。しかし、それに対して「何か」が
それは違う、と私達の心で叫ぶのは、一体何なのだろうか。


○人間のクローンに関する制限の問題


 そこまでいかなくても、生命倫理には様々な問題がある。デザイナーベイビーなど、
優れた知能、容姿、身体能力を持った子供を、遺伝子の段階で操作して作る、
といった事が、精子バンクなどをみての通り現在でもあるが、遺伝子技術が発達すれば
ネットゲームのアバターを選ぶかのように理想的な「人間」が生まれるかもしれない。
またこれが軍や企業が用いるとしたら、「優れた兵士」などを生み出せるかもしれない。


 そのような、「被害者がいない」という生命倫理的な問題への答えは、18世紀の哲学者
であるカントの倫理学の言葉である、


『あなたは、あなた自身の人格においてであれ他者の人格においてであれ、人間性
常に目的として扱い、決して単に手段として扱われないように行動しなさい』


という言葉の中で述べられている人間が人間であること、人間性を根拠とした、
ヒューマニズムがもっとも適合してるように個人的には考える。
 

 「それでは他者を目的のための道具として用いようとするのだって人間性ではないか」という
批判がありうるが、人間が人間である事とは、少し違う話を例として挙げると、
ナチズムの経験をしたドイツは、自由と民主主義を否定する自由と民主主義上の政治活動を
禁止するという、「戦う民主主義」というものがあるが、生命倫理の場合、「人間性と人間の多様性を
否定する人間性、多様性上の考えは認めない」という「戦う倫理倫理」が成り立つのではないかと
個人的に考える。


 だが、上記のデザイナーベイビーは、それによって否定されるにしても、
出生前診断が技術的に可能な今、出生前診断で「貴方の子供がこのまま生まれた場合、
先天的障害を持って生まれ、10歳になる前に亡くなる可能性が高い」といわれた両親に、
人間性を持って出生前治療を否定することができるのか、といえば、とてもできないのでは
ないかというのが個人的な考えである。


 そのようなデザイナーベイビーや出生前診断での先天的障害の問題は、「異常を持って生まれる場合に
限れば問題ない」というのが現実的ではあるが、しかしそれまでは「性格の問題、努力の問題だ」とされてきた、
アスペルガー学習障害など広汎性発達障害など今現在は障害として認知されている問題を
考えると、将来的にこれは「先天的異常ではないのか」という、医学の進歩による「異常」の拡大が
行われるとすれば、一体どこまでそれら「異常」というのが区別が付くのか、
そもそも「正常」の定義自体が安定していないのではないか、と個人的には思ってしまう。


 話を戻して、完全体であるクローンは、人間以外の動物の場合は否定されるものではないと
個人的には思う。人間の完全体であるクローンは、それが例えば不妊症の方が子供を持つ手段として
用いられるならばという少数の例をのぞけば、その「目的のため手段」として考え創り出す主体が
政府、企業、軍などその他何かしらの権力によって基底され、製造されることや、
医学やその他の全ての科学的研究において、実験動物的に、あるいは臓器摘出個体としてなど
非人間的に扱うために製造することは、それはカントのいう、「人間性を目的のための手段として用いる事」
であり、極めて不当であり断じて許さざるべき行為だと個人的に考える。


○おわりに・・・人間は何故産まれたのか、と考える人間性


 以前星新一ショートショートであったお話として、ある不良の少年が、
親からお金をよこせと脅し、「誰が産んでくれって頼んだ!頼んでねえだろ!」と
よくある反抗期の言葉で言うのですが、そこに「我々が頼んだ」と背広姿の人間達が
現われ、「なんだよ、あんたら!?」というのに対し、「我々はこの夫妻に対し、
臓器摘出用の個体を産んで育てる事を頼み契約をした」と契約書をみせ、
夫妻が「お金はいりませんし払いますからこの子を連れて行かないでください」と
親としての愛情で言うのに対して、契約ですからと少年は麻酔薬で気絶させられ
ながら、「たすけて、母さん、父さん!」と叫ばれながら連れて行かれるシーンがある。


 自分は何のために生まれたのか、とよく思春期や青年期などで考える事があるが、
人間が「人間」を何かしらの目的のための手段として創造して、人間として扱わずに
「我々が作った目的のために働け、そのためにお前は作られたのだ」と言われた場合、
そのような自分が産まれた事が他者による目的を持って生み出されたと思った場合、
私たちが「自分は何のために産まれたのか」と自問自答して哲学的に考えるという行為、
人間性を持って人間として生きる事」がその存在に許されない、人間性というものの
聖域を完全に否定された場合の悲しみと絶望は計り知れないと思われる。
もし自分がクローンとして仮に自分が生み出されたなら、と考えると、政略結婚のために産まれた
女性が人生に絶望しているような事が想像の例としてあるが、ましてクローンの場合となると、
容易にどれだけ絶望するかが想像がつくのではないかと思う。
そのような人間性の否定に繋がるようなクローンは許されるべきではないのではないか、
逆に言えばそのような事に繋がらない事が、そのクローン製造の是非を判断する
基準になるのではないか。


 しかし、遺伝子技術の発達によって、バイオ革命がこれから比類にならないレベルに発達することが
予見されるが、その場合において、法的整備などが追いつかず国内法優先で国際法的に
強制することができない問題がある。「アメリカで研究が規制されるなら、
宗教的にうるさくない日本や秘密研究ができるイスラエルへ研究者は逃げるだけだ」と
研究者が憂慮しているように、おそらくいずれ遅かれ早かれ、もしかしたら今現在存在するかも
しれないが、完全体のクローンが生み出される事になると思う。


 その時に、仮に生み出した存在が「目的のための手段」として何者かに
生み出したのだとしても、私たちは人間として、人類として、その生み出された
出生の形がクローンである「人間」に対して、お互いの人間性を目的として、
さらに人間性を追求していくことを議論し構築して準備しておくことが、
そのクローンを生み出した事に対する贖罪ではないかと個人的には思う。


AX



○後記
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