概念内容の表現と思想言論の自由市場


以下は、先日の「表現規制における保護法益パターナリズム」に頂いた、ある方の
お返事で、その下のが僕のお返事になりますが、いかがでしょうか・・・?
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「表現が規制されるのはその表現がすでに暴力で脅威だからだYO!」
http://d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20100315/rape


「表現は是認である」
http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20100403


  やはり「不快・恐怖」という定義の主観性、制度運用の恣意性が問題になるわけですね。
現実での不利益を捨象して「表現それ自体」を問題とするのも、差別表現規制がそもそも現実での
直接的不利益を是正するために行われたことを考えると、原理に反すると。


 また、差別表現のよう「現実の直接的被害」があるのであれば、「侮辱罪」や
名誉毀損罪(あるいは脅迫罪やセクハラも入るかもしれない)によって対処することが現行法でも
十分可能であり、非実在青少年保護条例は行き過ぎた規制であると。


  客観的な実害とのリンクを外して、「主観的な不快・恐怖」のみに基づき「表現それ自体」を問題に
することは、現憲法・人権思想・民主主義の諸原則に照らし合わせると、正当化が難しいわけですね。
これで自分の理解が合ってるのか多少不安ですが、わかりました。


>ホームページとブログに載せさせていただいてもよろしいでしょうか・・・?
私のホームページとブログに? 良いですよ〜。
あ、パターナリズムについてのサイトも後ほど読ませてもらいます。
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  いえ、すみません、僕の論点がズレてました、申し訳ありません(汗) 
さっそく上のサイト様を拝見しました、つまり、「概念として、概念存在を是認すること自体が
問題であり、まして表現という『行為』を行うことは犯罪である」というような内容に思えました。


  それにつきまして、「概念存在として、問題である」については、確かに、人類として、
容認し難い概念はあるかと思います。例として上のURLの方が挙げられているような、
幼児虐待や婦女子陵辱、輪姦、人身売買、四肢切断から、果てはホロコーストまで、
いろいろあるかと思います。しかし、「この概念を抱いてはいけない」というのは、
概念というものが、観念連合学説なりの経験論などや、合理主義などで生まれるものとすると、
その概念の発生自体は自然発生的であり、概念を持つ事自体を否定することは、
そのままの言葉ですが、「思想犯罪」化に他なりません。ナチスドイツ時代を経た
ドイツの「戦う民主主義」では、例えばナチスの党歌を歌ったり、ハーケンクロイツ
掲げるのは犯罪になっていて、最も「戦闘的」な「戦う民主主義」国ですが、概念として、
ナチズムやその内容の一つである、ユダヤ人を人間とみなさない思想を、持つことを許さない、
というのは、ドイツですらありません。なぜなら、内心の自由を侵すことは、まさにファシズムによる
思想犯取り締まりと同じだからだと思います。


  次に、「その概念存在を表現する『行為』が、概念の是認であり、犯罪的である」
ということについては、確かにその点については、先述のドイツにおける、
ナチス時代の概念を表現することの違法化の例を見れば、一理あるかと思います。


  しかし、そのドイツの例での、その規制の根拠は、先述のように、「戦う民主主義」であり、
その意図するのは、「民主主義の敵に民主主義を否定する自由を許すな」かと思います。
では、「幼児虐待や婦女子陵辱、輪姦、人身売買、四肢切断」のような場合はどうか、
といえば、あえていえば、「基本的人権の敵に基本的人権を否定する自由を許すな」
かと思いますが、それ自体は、一見、そうなのかなと思えます。


  ただ、ここで問題となるのは、「幼児虐待や婦女子陵辱、輪姦、人身売買、四肢切断」という
内容について、第一の問題として、その表現者が、その表現されている行為を主張しているのか、
といえば、イコールではないと思います。この場合はないとは思いますが、極端な例では、
あまりいい例ではありませんが、戦争映画というのは、戦争行為を是認する製作者の方だけでなく、
むしろ反戦の意味で表現を行っている場合もあります。ただもちろん、先述のような性暴力に関しては、
そのような逆説的表現の意図が、作者の方にあるかは、僕には分かりませんし、可能性はあまり
ないように個人的には思います。


  ただ、少なくとも「主張」という、「○○すべき」という行為ではなく、
「表現」という、「○○。」という行為の場合、「主張」の取り締まりは、
基本的人権の敵に基本的人権を否定する自由を与えるな」の論理が考えられますが、
「主張」と「表現」は「主張」が「言論の自由」に入るように、まったく異なる行為だ、
ということが、上のURLの方は勘違いをされていらっしゃると思います。


  「表現」の場合は、特に、「創作」というものは、人間の創造性によるもので、
基本的人権の否定」ではなく、「基本的人権の発露」そのものではないかと思います。


  これもあまりいい例ではありませんが、ジョージ・オーウェルの「1984年」という
小説をはじめ、いわゆる「ディストピア小説」という、絶望的な狂った世界を描いている
小説があります。特に「1984年」の概念内容は、情報化の進んだ今だからこそ、
逆に非常に現実可能性が高いもので、危険な内容ですが、それが文学として普通に
受け入れられているのは、オーウェルが「このような世界にすべきだ」と言っているわけではない
からで、「このような世界もありうる」といっているだけだからです。
(もっといえば、「このような世界にならないように気をつけねばならない」という
意図がオーウェルにはあったのですが)


 また、第二の問題として、その表現行為自体が、その表現内容の概念内容を国民に是認させる
もので、犯罪である、ということに関しては、人類として受け入れがたい表現内容を視聴した国民は、
その表現内容の妥当性を認めるか、といえば、それはあまりに短絡的なものであるのは、
それを否定する言論・思想による対抗言論での、いわゆる憲法学の、「思想言論の自由市場」
での対抗こそが、民主主義社会の原理であり、先述の「戦う民主主義」の場合は、
その「思想言論の自由市場」を否定するものだからこそ、否定されているのだと思います。


  その点で、「表現行為は国民にその概念内容を是認させるもので犯罪だ」というのは、
成り立たなくなります。逆に、思想言論の自由市場を否定する表現行為こそ、
思想言論の自由市場を機能させなくするという意味で問題で、国民が良識を理解できないので
国が保護しなければならないという、パターナリズムの名を借りた権威主義に他ならない
と思います。

AX




○後記
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