表現規制における保護法益とパターナリズム

 

  すみません、某所でコメントをさせていただこうとしたら、字数制限にひっかかってしまいました(苦笑)
○○さんのおっしゃられる問題は、ものすごく重要な論点ですし、日記の形で書かせて頂きました、
申し訳ありませんm(__)m 

##########以下、ある方から頂いたコメント################

 反論を試みます。お付き合いくださいまし。 

  児童に対する性暴力の「表現」には被害者がいないということですが、では、黒人差別の
「表現」にも被害者はいないのでしょうか。黒人差別表現は「被害者のいない犯罪」と言えるのでしょうか。 

   仮に、黒人差別表現によって、黒人が現実的な不利益(雇用・居住区での差別など)を被って
いないとしても、やはり攻撃的な差別表現は『それ自体で』問題になるものと思われます。
「黒人のキャラクターであって、現実の黒人ではない」などと言っても、おそらく通用しないでしょう。
また、たとえゾーニング(年齢指定や販売場所の分離)が徹底していたところで、黒人にとって
あまり慰めにはならないかと思います。  

  性暴力表現においても、同じことが言えるかと思います。たとえ実際の性犯罪につながっていない
としても、そこで描かれているのは「現実の児童」を想起させる存在なのですから、
そのような表現が流通している社会に対し、児童の親が恐怖や不快を覚え、それを規制して
ほしいと思うことは、法的な保護の対象になるでしょう。「現行の自主規制ではまだ不満である」
と要求することが出来ると思います。  

 「黒人差別表現が、表現それ自体が黒人にとっての恐怖・不快となることを理由に、規制される」
が正当なのであれば、「児童への性暴力表現が、表現それ自体が児童にとっての恐怖・不快となる
ことを理由に、規制される」とも言えるはずです。もしもこの二つに何らかの差があり、
方や規制の対象となり、方や規制の対象とはならないのだとしたら、その理由をお教え下さい。   


………なお、この反論が崩せたら、私は大喜びします(笑)  

 「規制賛成派」の論理が、まさしく上で書いたやつなんですよ。私は規制反対派なのでこれに困ってます。
非実在青少年」についてだけなら、規制の恣意性を攻撃するのが有効だとは思うんですが……うーん。  

##############以下、僕のコメント#############

  あっ、そういえば、このお話の非常に難しさについて、○○さんから以前お聞きしましたよね、
その点を忘れていました(汗)以下がお答えになるかどうか分かりませんが、よろしくお願いします。 

 「表現規制」の問題において、まず第一に、○○さんが挙げられているような、
「黒人差別など、表現行為は、直接的ないし間接的に被害者がいない犯罪だといえるのか」
という問題ですが、これに関しては「黒人」という「実在」する存在への差別である点で、
これは法的には直接そのようなことを黒人の方にいえば、「侮辱罪」に該当し、
メディアなどの媒体を通してであれば、「名誉毀損罪」に当たるように、「実在」する
存在への表現的暴力への規制は、現行法上ですら認められている
かと思います。

  しかし、今回の表現規制で論点になっているのは、いわゆる二次創作物という、「非実在」の存在で
あり、黒人差別のケースとは異なって、少なくとも「直接的」には「被害者がいない犯罪」である
といえるかと思います。 

 第二に、では「児童虐待、性暴力などの二次創作表現に関して、それが現実の児童や女性を
想起させ、それが現実の児童や女性に対して、恐怖や不快という不利益、被害を与える
直接的な問題と、現実の存在を想起させることによる現実での犯罪行為の実行の助長という
間接的影響を与えられるか」については、まずその直接的な問題に関して言えば、
黒人差別やマイノリティーへの差別に関する表現規制は、「恐怖や不快」といった、
受け取り手側の心理的ダメージも、先述の「侮辱罪」などの問題としてありますが、
一番の問題は、「差別」という行為は、「差」で「別ける」の通り、「『私たち』とは違う、
私たちの『社会』の外にある存在」という、いわば、同一社会内に存在しながら、
存在価値や権利の格差を認めるという事で、大きな問題であり、「差別的表現」によって
「社会的差別が起きる」というのは、現在的に考えられるもので、本来の「差別的表現」を規制した時
の理由は、「社会的差別があるから」、現実的にはアファーマティブアクションによる権利保護、
社会的地位の平等化、そしてそれに付随して、「差別的表現」の是正があった
のだと思います。
なぜなら、社会的平等を目指そうとしているのに、言葉上は「平等でない」、「差」があり「別な存在」と
言う事が認めれるとしたら、それはおかしな問題だからです。

 翻って第三に、では今回の表現規制における、児童や児童の保護者の受ける、「恐怖、不快」を
保護法益として、保護するべきか、といえば、これは極めて難しい問題です。「難しい問題」というのは、
保護すべきか分からない、という意味ではなく、先述のように現行法上、直接的、間接的には
「侮辱罪」「名誉毀損罪」があります。

 「恐怖、不快」のような、「受け手の主観と、社会通念上の判断」というものが必要な問題に
ついては、これは司法府による法学説の確立と判例の構築によるしかないもの
であり、
そもそも児童と児童の保護者の大半が社会通念上「恐怖、不快」を受ける「表現」というものを、
立法における法条文において定義する、ということ自体が、事実上不可能
です。
もしそれが可能なのならば、「侮辱罪」に関して、細かく規定を設けることが可能である、ないし、
可能なら設けなければならないことになりますが、「バカと言われた者がIQ85以上である場合は、
侮辱罪として1年以下の懲役に処す」など、一般的な「バカ」という「不快」な言葉ですら、定義不能で、
定義化することは、例えば上の例では、「ということはIQ85未満の者は『バカ』だと国が認めているのか」
という問題になるかと思います。

  そして、第四に、性的表現の場合は、そもそも一般的には「わいせつ物頒布罪」という、
「わいせつ物」の「頒布」を取り締まる法律があります。その上で、児童保護の観点から、
加えて現在、現行法の「児童ポルノ禁止法」があるわけですが、その児童ポルノ禁止法の
本来的な保護法益は「児童の人権保護」のはずです。しかし、例えば児童ポルノ禁止法の
改訂案が、旧政府与党から出されたことがありますが、その際に問題となったのは、
二次創作物への規制もそうですが、いわゆる「単純所持」の禁止でした。これは、一見、
問題ないように思えますが、その児童ポルノ」という「定義」が、極めて曖昧であり、
何が対象になるのかわからず、国民は自らの持っている写真、映像、ファイルなどが、
違法でないのか違法なのか分からない、という点と、その判断が現実的には警察行政など
国に委ねられる、という、極めて危険性の高い法改定案だったからこそ、批判があり、
国民のみなさんの力で廃案にすることができました。その際、「何が違法か分からない」というのは、
「写っている存在が、18歳未満かどうかを判別することが不可能である」こと、が問題でした。

  その上で第五に、では二次創作物においてはどうか、といえば、まず、先述の「人種」という
「差」により「別れている」概念ならば、ある程度は判別が可能なのですが、しかし「人種」というものですら、
混血化があるため、例えばナチスドイツのニュルンベルク法においても、制定に大混乱をきたし、
その後、戦争勃発をしてからは、定義があいまい=恣意的運用となって、「ユダヤ人らしき人間」まで
対象となりました。先述の人種差別の場合ですら、そのような状態なのに、表現規制の対象として、
例えば仮に実在する18歳の女性を50人と、17歳の女性を50人の、100枚の写真を用意して、
どの写真がどちらに当たるかを隠して、それぞれ、「18歳未満か否か」を判別しようとした場合、
18歳の女性でも中学生のように見える、いわゆる童顔の方もいらっしゃるでしょうし、17歳の女性でも、
20代に見えるほど、大人びた方もいらっしゃって、事実上不可能であり、つまりは外見による線引きの
定義化が不可能である、ということができるかと思います。

 これは、「実在する青少年」ですら、そうなのですから、これを「二次創作物」の登場人物で
年齢判断を外見で行うというのは、当然ながら不可能で、不可能であるのに、
それを無理やり立法しようというのは、極めて危険
、かつ、その判別が、行政においては、
法文では定められていない規制内容は、行政府が立法府に制限を受けずに自由に定める省令で
定められますが、そのような形で警察行政における省令や、警察官の主観による逮捕、勾留が
まかり通るようになるなら、それは警察行政に無制限の恣意的な逮捕権の行使を
行うことを許すことです。

  この時点で立法化は論外だと思いますが、仮にお話を進めさせて頂いたとすれば、
このような警察行政の暴走は、もしも検察行政や司法府が健全であるならば、
人権保護がある程度は確保できるのですが、現実は検察行政は警察行政の出す調書を
ろくに調べもせずに、起訴を行い、裁判員制度で変わるかもしれませんが、
少なくとも司法府は、検察行政の出した調書という、文章を固定観念として判断を行い、
結果、有罪率が9割を超えるという異常な法運用になっていることを考えると、
そのような状態で、「二次創作物」の登場人物の「年齢」を判別することは、
不可能であるのにも関わらず、そのような定義がほぼなく主観による法運用しかできない
立法を行うことは、そもそもの目的である「児童の人権保護」に資することなく、
逆に精神的自由や身体の自由など「国民の基本的人権」という憲法の保護法益を、
侵害するものであり、明らかに違憲立法
であって、強行的に立法した場合は、
それは警察国家化、ないしその後に思想統制化を行うもの
であって、
違憲なら違憲立法審査権があるから立法してから考えればいい」というような、
現実の違憲立法審査権が付随的なものであってほぼ機能していないことを無視した
立法化論は、断固として反対しなければならない
、と思います。

P.S.

 あ、非存在青少年のお話というより、「児童と児童の保護者が恐怖、不快に思うのを
保護するのは、人種差別での差別的表現による恐怖、不快に対する規制がなされているのに、
なぜ否定するのか、同じことなのだから、保護すべきだ」という表現規制派についての
お話でしたよね(汗)補足させて頂きますね。 

 その、定義の不可能性による国家権力の暴走の危険性については、先述のように
述べさせて頂きましたので置かせて頂いて、問題は、「児童と児童の保護者が恐怖、不快に
思う二次創作物による表現とは何か」ということかと思います。それが、「児童」が
性的行為の対象となっているからだ、とすれば、二次創作ではそれが分からないという
先述のお話になりますが、「性的暴力、いわゆるレイプや虐待、残虐行為」ならば、
確かに不快、恐怖を感じることは予想がつきますし、社会通念上それは合意されるかもしれません。

 ただ、その場合は、「児童」というよりも、「人間」が、であって、「20歳の女性が集団レイプされ
喉を掻き切られる漫画」というのなら、児童でないのでいいか、といえば、おそらく規制派の方は
そう思わないと思います。よって、そのようなお話の場合ですと、児童ポルノの問題ではなく、
一般的な性暴力に関する表現規制になるかと思います。

  その上で、「どの程度まで表現の自由が認められるか」、ということについてが問題になるかと
思いますが、あらゆる表現の自由が認められる、では、社会的に問題が起きるのは、確かだと思います。
しかし、「どのような表現の規制なら認められるか」については、「黒人差別」などの表現規制
場合は、「民主主義社会を阻害する言論」として、ある意味では「戦う民主主義」に
正当化根拠があり
、そのようなものかと思うのですが、「不快、恐怖」という、「主観的実害」と、
「社会通念上、認められるべきでない表現内容」というものとなると、これはその根拠が、
前者は「被害者の保護法益である、精神的損害」になり、この場合は私的自治の原則により、
本来は民法不法行為に基づく損害賠償に根拠を求めるもので、「実害」に根拠があって、
個別条文によって一般化できな
ことがあるかと思います。そして後者の場合は、
その根拠はまさにパターナリズムに基づくものであり、これは基本的人権
自己決定権というものと相反するもの
です。

 しかし、現実的には、禁煙条例や車のシートベルトの義務化など、正当なパターナリズム自体は
存在します。では、何がパターナリズムを自己決定権に対し優越させ正当化できるのか、というと、
憲法学では、いわゆる「より制限的でない他の選びうる手段」というものが、他にない場合に限る、
ということになりますが、これに関しては、いわゆる業界の自主規制団体による自主規制が
行われていて、市民社会の自律性が成り立っている状態です。
れが不十分だとする場合
ならば、まずは国による立法化での規制ではなく、市民社会による自主規制を求めるべきで、
かつそれを求める権利を持つのは、国家ではなく、市民自身そのものかと思い、その点で
おかしい
かと思います。 

 ・・・という感じなのですが、いかがでしょうか・・・?またお返事を載せさせて頂きます。



AX





○後記
よろしかったら↓のランキングにご投票をよろしくお願いしますm(__)m

人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村

web拍手 by FC2