自由と平等の均衡倫理

 

○後から書いたまえがき

 なんか、たぶん、文章めちゃめちゃです(汗)載せてから後悔しそうな予感。。。(汗)



第一章 自由と平等とは



○「自由原則」と「平等原則」の二律背反性




 一般的によく、「『自由』と『平等』は両立しえない、対立するものだ」と言われることを聞いたことがありますが、それはもっと言い返させて頂ければ、「『自由』のうちの『経済的自由』を制約することで、主に経済的自由によって生まれる不平等を、『平等』に基づいて是正するか否かの矛盾」が主になる事かと思います。


 そもそも「自由」と「平等」は、どちらも主張として成り立ち得て、相反的な概念であって、どちらか一方が正しいというわけではないかと思います。


 人類の歴史上、様々な思想がありますが、近代以降の近代自由主義、近代民主主義において問題となるのは、「自由」と「平等」のバランスで、それにより政治的呼称が変わるのかもしれませんが、そのように一般的な政治コンパス上では、平等に沿う分「左派的」で、自由に沿う分「右派的」といわれがちですが、それは本来的には「自由原則を制限して経済的自由の一部を平等原則に基づいて是正する」という概念があるからだと思います。


 そのように「自由」と「平等」は、存立し得ないのではなく、その「自由原則」「平等原則」と、あくまで原則として、どちらの原則をどれだけどのように適用するかが、問題なのだと思います。


 しかしその、平等原則、自由原則の根底にある思想とは何かと考えますと、平等原則背景には、様々な面での人々の格差と不平等を、人為的に是正し適正な内容に社会を変えようという、「理性」を主とする「主知主義」で、そして、自由原則はその背景に、人々の自由意志とそれに基づく合意こそが問題であり、自由な個人同士の合意形成に委ねるべきだ、という形で意志が主な「主意主義」になるかと思います。どちらも珍しい単語ですが、人間の精神は「知・情・意」よって成り立つとよく聞きますが、このうちの「知」を「おもき(主)に置く」のが「主知主義」で、「意志」に基づくのが「主意主義」といわれるものです。

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○平等原則とは


(1)平等原則の背景とその内容・・・デモクラシー


 そして、その平等原則とその根底の主知主義に基づいたシステムは「デモクラシー」になるかと思います。「当たり前じゃないか」と言われるかもしれませんが、前述で「民主主義」と述べていたのを「デモクラシー」と申し上げたのは、語源の通り「多数者支配」の意味としてで、いわゆる「社会的、物理的弱者など少数派の尊重」「基本的人権の尊重」「法の支配」という、思想としての「民主主義」とは違う、という意味で申し上げさせて頂きました。

 その「平等原則」の具体的なシステムである「デモクラシー」は、「平等な理性的な各個人の各意見を『まとめて』、『最大多数だった考え』には『制約される』というシステム」であり、いわば、「『理性』や『幸福』を『質と量の比較可能』な概念である」ということが前提条件として必要であるかと思います。


 『理性』はともかく、突然『幸福』という概念が出てきてしまいましたが、満足度、必要性、もしくは本当に生物学的に計量可能なら「快楽」と言い換えてもいいかもしれませんが、現代の「民主主義」では明確には明言されていなかったり、もしくは功利主義ではないと否定ている論理だったとしても、いわゆる功利主義的な「『幸福』の質量の計量可能性」を大なり小なり前提として持っているかと思います。これとデモクラシーが加わって、「最大多数の最大幸福」となるような「福祉国家論」が生まれるのだと思います。


 お話がずれてしまいましたが、まず第一に平等原則の背景にある「主知主義」は極端に言ってしまえば、デカルトのいっていたのは良識(bon sens)ですが、平等原則での「理性」とはこの場合の良識と同義だとお断りさせて頂いた上でデカルトの言葉を挙げさせていただければ、「『良識』はこの世で最も公平に分配されているものである」という言葉のもので、これ以後「実践理性」「純粋理性」どちらも含めた意味で「理性」という単語を申し上げさせて頂くことにします。お話がそれましたが、各人が公平に同じ質・量である「理性」を持っているというのが、「主知主義」の前提である、と思います。


 そして、だからこそ、古典的には「平等原則」は、同じ質・量の「理性」を持つ諸個人という、原子論的個人概念だからこそ、各人は「平等」な権利を持つという基礎付けがまずはなされたのだと思います。


 そしてそれが第二に、「理性」による判断は、トートロジーっぽくて申し訳ないのですが、あえて表現すれば「理性的」で、理性的判断により、「真理」に近い、ないし、より【正しい】判断に近づくことができるだという「信念・原理」を持っているのがあるかと思います。そして、諸個人の「理性」の質・量が同じとして、極端にいえば同じ判断をした「個人」の人数に比例するような、つまり「理性」の計量可能性を前提とするなら、「理性による判断」で同じ判断をする個人が多ければ多いほどである事を、「真理さ」ないし「正しい事」に近い判断だということの根拠にして、それにより古典的な「デモクラシー」の正統性の基礎付けがなされるかと思います。また、そのような「理性の最大多数」というものの形成をする上で、手段となるのが、「弁証法的対話」であるかと思います。


○自由原則とは


(1)自由原則の背景とその内容・・・「自由市場」


 自由原則は、その根底に「主意主義」があるのではないか、ということは、先述させて頂きましたが、ここで「主意主義」の具体的なシステムは、「自由市場」になるかと思います。


 この「自由市場」というのは、「しじょう」ではなく「いちば」とお読みいただいた方がありがたいのですが、市場とは、経済学的なものでなく、「コミュニケーションと合意形成の場」と言い替えさせて頂くことができるかと思います。それは、言論市場からおしゃれ市場など、いろいろ「価値概念」に関する「市場」で、自由なコミュニケーションにより「合意」を形成させる場、といえるかと思います。そして対等な契約という意味での「平等」のみ問題として、基本的に自由な個人が自由意志による「合意」によって持つこととなった不平等、格差については、自由意志により「合意」により不平等や格差を緩和することはあっても、基本的には「自由」であり、それは、格差がひどくなれば、「マーケットメカニズム」によって「自然」にバランスがとれるようになされる、ということかと思います。


 「マーケットメカニズム」は「合意」に基づかない原理として、「主意主義」からするとおかしいと思われる方もいらっしゃると思いますが、「デモクラシー」を基礎づけるものとして「弁証法」というものがあったように、「自由市場」を基礎づけるものとしての「マーケットメカニズム」は、対等な個人においては、自由な合意による格差ができても、極端に偏る内容ならば、それを相手側は拒否する権利を行使して、「よりよい」内容を探すことになり、極端に偏る内容を求めた人は、要求内容を相手側にも利益になるように調整せざるを得ない、という各人の合意の結果は全体的に最適な形で均衡するという「市場均衡」を手段とした形で、成り立っていると思います。


 そのように、「合意」を形成するために根拠とするものとして、「幸福」の計量可能性が前提とされるかと思います。その中では特に、「市場均衡」においては「金銭」が数量化するのに便利で、各個人の価値観を超えて各人の望みの度合いを図るのに、いわば共通尺度として用いらることになるかと思います。この際に問題となるのは、「質」を「量」化できるか、数値化できるか、ということですが、その一つの形として、「人があるモノの質を評価して、それが欲しいためにいくら支払うだけの効用があるか」という、近代経済学の「限界効用」という価値概念が背景にあるのが極めて重要だと思います。



第二章 社会契約論的功利主義から見た自由と平等の均衡原理


○「原初状態」・・・「自由」と「平等」が完全に満たされた初期状態





 しかし、そもそもの「『平等』の定義とは何か」「『自由』の定義とは何か」という事こそ問題かと思いますが、まず、同じ「理性」を持つ存在という概念を根拠として、「『平等』に『権利』を持つ諸個人という概念が現れるかと思います。「権利」とは、「全ての『自由』の中での、ある権利」が、本来的には意味するところだと思います。同様に、「平等」とは、「ある『権利』に基づく、全ての『平等』」、「自由」とは、「スタート時の『平等』を前提とした、あらゆる『権利』」というのが本来的には、意味するところだと思います。そして、その「権利」についてさらに申し上げれば、重要なのは、「最初の状態」、「原初状態」が最も問題であり、初期状態においては「全ての人間は完全に自由で完全に平等である」という前提が、「平等原則」「自由原則」根源的にはどちらにも、存在するかと思います。




 これは、のちの保守主義などによる、社会契約論批判がなされる事を考えると、「自由原則は初期状態を前提としないのではないか」と思われる方がいらっしゃられて当然かと思いますが、しかし、近代保守主義での批判は、前近代の王権神授説などとは異なり、批判の内容は「初期状態」については「現実に生きている我々に限ってみても、生まれる前から先に政治権力は存在していて、契約行為がなされていない。かといって、社会契約論の前提であるはずの『初期状態』と『原初契約』など、現実的に歴史においてはあった証拠がなく、そのような概念を現実政治上で想定するべきではない」とは批判してもその概念そのものを否定するものではないのではないか、と思います。




 近代保守主義の批判は、「原初契約」が行われたという、歴史的根拠もなく、現実の今の時代の人間が、自分の属している政治権力に対し、『万人の万人に対する闘争の解決』や『自然権の対立の調整』、もしくは『より自由で平等にするために』などを条件とした『原初契約』について、今もその『契約』が存在していてその契約に違反したという事を根拠として、既存の政治権力である自分の属する国家に対して、その現状や歴史的継続性を無視して、まだ行われた事がない、理論上でしかまだ存在していないような政治経済システム、社会システムなどを、具体的にいえば当時の場合、三権分立化の要求や共和制民主主義の要求、究極的には抵抗権に基づく革命を行うという主張を行う事の危険性」であり、その概念そのものを間違っていると言っている訳ではないと思います。


○最上下限の「自由」と「平等」



(1)「最低限度」の「自由」「平等」


 そして「自由」の上の「権利」についてと「平等」についての本来的な意味について述べさせて頂いた文章をみられても、お分かりになられるように、2つの「自由」と「平等」は、それぞれ、「全て」を最高として、最低限度を下限として、お互いに相互作用を及ぼし相反しながら、均衡して成立しています。


 それは、まず「『平等』を否定する『自由』権」を先に例にさせて頂きますと、説明不足で申し訳ありませんが、「平等」概念を否定することは、そもそもの「権利」概念を成り立たせているのが、「平等」概念であるため限界があり、その「最低限度」の「平等」を想定すると、そこにおける最低限度の平等とは、「権利主体としての平等」、合意における対等といえるかと思います。この「最低限度の平等」が守られれば、今は不平等であっても、いつか「合意」とその「市場均衡」による「マーケットメカニズム」で、格差を縮める、なくすことができる可能性があるから最低限度のものとして必要であるとされるかと思います。


 「『自由』を否定する『平等』」になりますと、「自由」概念を否定することは。そもそもの「平等」概念を成り立たせているのが、「自由」の一部の「権利」概念であるため限界があり、その「最低限度」の「自由」を想定すると、そこにおける最低限度の自由とは、「政治主体に対する自由」といえるかと思います。それは、言葉を補わせ頂ければ、参政権という「国家への自由」でもあり、またその前提として、身体の自由や精神的自由など「国家からの自由」も含めた、平等原則のシステムであるデモクラシーへの権利といえるかと思います。それは、この「最低限度の自由」が守られれば、今は不自由であっても、「弁証法的対話」による「デモクラシー」で、自由を拡大することができる可能性があるから、最低限度のものとして必要であるとされるかと思います。




(2)「最大限度」の「自由」と「平等」



 この、「自由」と「平等」のバランスは、どのように均衡させるべきか、ということが問題となりますが、まずその出発点として、「自由」についていえば、「最小限度の平等」を前提とした「最大限度の自由」として、「すべて自由のうちの中で、他者の権利を害しない限りの自由」を認めるというミルのいう「危害原理」が、「自由」に関する倫理として第一に成立するものとして挙げられるかと思います。

 そして、「最小限度の自由」を前提とした「最大限の平等」として、「すべての『平等』のうちの中で、他者の『最低限度の自由』、すなわち基本的人権を害しない反りでの平等」があり、これはロックやルソーなど社会契約論における「基本的人権の尊重原理」の概念が、「平等」に関する倫理として、第一に成立するものとして挙げられるかと思います。


○「自由」と「平等」の均衡倫理・・・ロールズにおける正義論


 これら「自由」と「平等」の最大最小限度の範囲で、どこの点で自由と平等を均衡させるか、については、まずそもそもこの「自由」と「平等」の前提として、「理性」や「効用」「価値」が「量化」でき計量可能であるということが先述の通りあったかと思います。そこにおいて、成立する倫理、正義論とはどうあるべきか、ということを考えますと、まず「自由」であることとして、「自由意志」による「合意」がなされる市場での「市場均衡」において【正しい】と判断されるモノがあり、他方、「平等」であることとして、「弁証法的対話」などを通じて「最大多数」の「理性」によって【正しい】とされたモノの、2つがあるかと思います。


 そのように、自分も含めたすべての個人のうち、できる限り多数が、「実践理性も含む理性」的に考えた上でも、「市場均衡」的に考えた上でも、正しい、先述のとの両方を満たす正義論の例として、「ヒュームの顔をしたカント」と呼ばれるジョン=ロールズの正義論があるかと思います。


 ロールズは、合理的期待仮説を用いる事でカント的倫理を根拠付け、現代の政治哲学の復興者の一人として挙げられる政治哲学者ですが、彼のことを功利主義の間から、それは修正功利主義の一つではないのか、と批評されていたりします。

 それは、おおざっぱに言えば、まず「無属性」で『初期ステータスの分からない個人』という「原初状態」で、仮に社会システムを構築するとした場合のお話で、それを考えた場合に極端な例として、『労働で生み出される限りのあるモノ、仮に富99単位を分配するとして、社会の10%の人が富99単位をすべて得てその人達だけで平等に分け、豪華な暮らしができるが、残り90%には富1単位だけ与えて、その大勢の人たちでは公平に分配しても、その90%の人は餓死してしまう資源配分の社会システム』を構築するのを私たちが選択するかどうか、というのが極端なお話としてあります。その場合、前提として、自らがその二者のどちらに属するか、初期ステータスが分からないため判断のしようがないなら、「(純粋)理性的」に考えても、「市場均衡」的に考えても、リスクが高く選択をしないはずだということになります。また、この富(資源)が労働によって生まれるものならば、そのような資源配分をしたら、仮に自分が10%の側の人間として生まれたとしても、他方の90%の人は馬鹿らしくて誰も労働せず生産力は激減して富も激減するので、どちらにしても合理的には選択されない選択肢だといえます。


 では一番確実に分配を確保するために、100%の人、すなわち「全員で、富100単位を均等に分けるシステム」を構築するべきかというと、その場合はその富100単位と人口と富の総量によっては、各個人の必要量に満たないかもしれない事と、またなにより、その富が、先述のように労働によって生まれる富だとするならば、いくら働いても同じ質と量の配分だとすれば、ゲーム理論のように合理的に考えれば「サボった方が利口だ」という判断が合理的だとされ、全員が「合理的」だとすれば、結果全員がフリーライダーになろうとして誰も労働をしないので生産量はゼロになる、仮にいろいろなゲーム理論での「戦術」を取ったとしても、全体で生み出される富の生産量は低迷するので配分される富も低迷する、というお話があります。


 完全な画一的な均等配分の資源配分では、そうなりますが、そこまでいかなくても、フリーライダーや基本的に生産量を上げようとする行動にはそのままでは動かない人が多くなり、結果、生産力は減少するという事は、このお話は旧「共産国」と呼ばれた国々で問題になったのはご存知の通りですが、厳密にいえばそれらの国ではそのように生産力の低下の問題のため、「ノルマ」とノルマを達成できなかったときの「罰」と達成できたときの「褒美」を与えて、サボっている人は逮捕して牢獄に入れたり最悪射殺したりすることで、「恐怖」を持って労働を強制させた上でのお話ですら、歴史をご覧になっての通りです。


 また、ロールズのお話とずれれば、悪名高い「ラッファー曲線」で有名な論理で、配分を減らせば減らすほど生産力は減るというか、ラッファーの理論は税収についてなので言い直させて頂ければ、税率を高くすれば高くするほど、特に累進課税の場合が強いほど、高い生産性を持った人は、特に累進課税の場合は労働意欲が失われるためその生産性は発揮されず、また均一の税率でも、ある税率X%以上の税率を超えると、税収はむしろ減りはじめ、税率100%だと当然誰も働かないので税収も0になるように、最終的には100%のところまで低下曲線を描きます。しかし、その税率X%以下の税率までは、仮に税率が0.0001%だとすれば、生産力は上がるだろうが、税率が低すぎるため税収は極めて少額になり、税率0%の段階で税収は0円になる。よって、0%から、そのある税率X%までの間は、増加曲線を描き、そのある税率X%こそ適正な税率である。ここまではいいのですが、問題はラッファーがその理論を用いて「現在の税率は、本来適正であるべき税率X%より高く、そのため現在の税率を引き下げると、むしろ税収は増加する」と、いう主張をして、レーガンがそれを採用した結果がレーガノミクスです。


 ちょっとお話がそれましたが、そのように、合理的な個人が、どのような初期ステータスを自らが持って生まれてくるか、もしくは持っているか、もしくはこれから持てる可能性があるかを、まったく知らない、分からない状態で、社会システムを構築する時は、あまりいい例ではありませんでしたが、先述のように、一部に偏りすぎるシステムは合理的に考えて自分が配分の少ないグループに属した時の事を考えると選択されない、だが、完全に均等配分するのは、先述のようなゲーム理論におけるジレンマやその他合理的に考えて「最適ではない」、そのため、結果的には、極端な格差のないが、労働に応じて合理的に考えて見合っている富の分配がゆるやかに異なる社会システムを選択するだろう、ということが、ものすごくおおざっぱで語弊や間違いもおそらく含んだ文章で申し訳ないのですが、ロールズの考えではないかと個人的には思います。


 その「合理的期待仮説」を用いた「正義論」を提唱したロールズは、たぶん自分の説が功利主義だなど言及したことはなく、かなり功利主義とは異なる思想家なのですが、少なくとも経済学の理論を用いている事は、近代経済学とそれに基づくシステム論は、その前提として、先ほどの例ではわかりやすく「富」と表現させて頂きましたが、あらゆる商品は必要とする人にとっては「満足」という「効用」という名の「価値」を持ち、あらゆる商品は自由競争原理を基礎とした市場で、価格が決まる、つまり「商品による満足の金銭換算が可能=『幸福』の計量可能性を前提」とするため、言及されていないにせよ、功利主義的立場にならざるを得ない、ということがあります。


 そして、そのように、「(純粋)理性」的にも「市場均衡」的に考えても、「実践理性」、つまり「倫理的」に考えて【正しい】と思われるものと一致させ根拠付けたロールズの理論は、賛否両論があるかとは思いますが、極めて現代における正義論に大きな影響を与えました。


第三章 「自由」と「平等」における資本主義の問題


○資本主義と自由


(1)「自由」と「資本」の結合


 お話が少しずれて本来のお話に戻らせて頂きますと、自由原則と平等原則、どちらにもある、「『初期状態』においては『全ての人間は完全に自由で完全に平等である』という前提」ですが、そのような状態を想定したとして、一時停止している状態から再生ボタンを押した瞬間に、それらが相反する関係性のため、一瞬にして二つとも完全には満たす事ができなくなるのは、ご存知な問題かと思います。


 では「どうして相反するのか」については、先述のように、少なくとも近代自由主義においては、「『理性』を有する存在の平等」が民主主義などその他の思想の根底に同じくあり、のちに社会民主主義社会主義共産主義と衝突するにせよ、本来的には前提としてはそれらと共通する「平等」という基礎付けを持つ、という事がありますが、そこにおいて、個人的な意見ですが、「資本」という存在と、「資本主義」という思想と「自由原則」の結合、ないし緊密化があり、それが「自由」と「平等」の相反性の根本的問題となっていると思います。


(2)「資本」とは何か


 「資本」と「資本主義」というと、なんだかどちらも定義が難しいですが、少なくとも「資本」については、「もとに資するもの」というように読んでみると、実に良くできた日本語訳だと思います。なぜなら、資本とは、「何らかの価値を生み出す元になるもの」で、よく聞く「資本金」などの単語も、「株主から集めた、それを『もとに』新たな利益を生み出す投『資』するお『金』」と分解しての通りのもので、非常に的確な訳だと思います。


 資本金の概念までなると、お話がずれてしまうので、本に戻させて頂いて「資本」について申し上げれば、先述のような概念ですが、具体的には根本的、原始的には、「土地」と、土地に付属するもので、価値を生み出すものしての、林、森、池、川、湖、海岸など自然による狩猟収穫が期待できるような立地と、人為的に価値を生み出すものとして、「労働」によって「新しい価値を生み出すための『もと』となる投『資』」をされて作られ、土地に付属させた、農地、建物、放牧地などがあるかと思います。しかし、それら自然による狩猟収穫で得られる価値や、もしくは人為的に生み出された「資本」によって生み出された価値は、基本的には農作物や食肉や飲み物など、食物の形で生まれるため、それは一定期限が過ぎたら腐って無価値になってしまうものです。


 しかし、そこで人類が考え出したのが、「金(gold)」を筆頭とした、稀少性による価値とともに、腐食せずに「価値を保ったまま存在させる道具」である、「希少鉱物」でできた「通貨」の発明によって、一気に状況が変わってしまいました。「通貨」なり「貨幣」自体は、古代からあり、今に至るまで続いていますが、古代から20世紀半ばにかけてまで、それが成立したのは、その裏付けとして「金(Gold)」を主とした、「希少鉱物」が存在することで、兌換通貨だからということが、通貨の「価値」を担保していました例があるかと思います。


 この、価値を保存できる、ということは、労働して生み出した「価値」を、保存蓄積できるという手段ができたことは、ミヒャエル・エンデの小説で昔、「時間銀行」のお話がありましたが、「『労働』して産み出した『価値』の保存」ということですが、それは見方を変えてみると、「既に行った『過去の労働』をいつまでも蓄積しておけて、それを持っているなら、買い物など『交換』によってすぐその価値を同じ価値のモノを得るために利用できて、貯めていって、自分が死んだ後も家族など、誰かに『未来』まで繰り越せること」こそが、歴史的にも重要なもので、これはジョン=ロックの著書「市民政府論」の中で、その発明の特殊性の指摘がなされています。また、「自由」に関して繋がりで、ロックの主張する人権として、所有権というか、プロパティがありましたが、その、「自由で平等な原初世界」において、あるモノを自分が所有する権利がある、と正当性かつ正統性を持つ根拠として、「手によって生み出されたもの」=「労働による生み出された価値への所有権」が挙げられていて、これらは労働価値説として、「自由」と「平等」の問題を考える上で、極めて大きな重要な提起だったと思います。


(3)「資本主義」とは何か

 「資本」に関しては前述のような内容になるかと思いますが、では「資本主義」とは何か、というお話になりますと、非常に難しい問題なのですが、基本的には「『資本』による資本の拡大再生産とその蓄積を目的とする思想」ということになるのではないかと思います。


 「資本」は先述のように、それ自体が「価値」を持つものではありますが、「価値」を保存蓄積、拡大再生産をできるものが「資本」といえるのではと思います。それは、土地、建物、自動車、株式、預金など、流動性ごとに違いますが、基本的には「価値」の蓄積されたもので、その「価値」を、その「資本」を用いることにより増やすことができることがあり、その増えたものがさらに蓄積していくという形で進んでいくことがあるかと思います。


 ここで問題なのは、先述のように、それが労働価値であり、イコールそれだけの労働の対価を支払うことに「合意」するということで、功利主義など「効用」や「価値」を表わすという、共通尺度としての「お金」というものが、価値を蓄積する機能があって蓄積することで、各個人の間で大きな格差が生まれる、ということで、そしてその「お金」、「資本金」を元に「資本」の拡大を行って、価値を増加させ、それを蓄積させて、さらに拡大再生産を行うということを行うと、「資本」がない人と「資本」を持つ人の間の格差は、資本があればあるほど資本は比例して増えていくため、広がっていくことになり、これが数世代にわたって血統主義で相続が行われていくと、資本蓄積の差による様々な不平等を引き起こすことになるかと思います。


 そして産業革命によって、工場生産制が成立すると、その「工場」という「資本」を、過去の資本蓄積によって作り上げた「資本家」と、そうでない人が生まれるわけですが、その工場による効率的生産での生産物価格の劇的な下落により、先述の工場を持っていない人は、手工業で工場生産に対抗できずに手工業という資本を手放し、結果、資本を持たず工場という「資本」を所有する資本家のための労働を行って「価値」を生み出し「資本」を増大させる「労働者」ないし「プロレタリアート(生産手段を所有していない人たち)」という二極化が起きてしまったのが近代資本主義だったかと思います。


 それは、「資本家」でない「労働者」の行った「過去」の労働によって、拡大再生産した「資本」により、「現在」の「労働者」が、「資本家」のために労働する、というもので、「持つ者」と「持たざる者」の間の格差は、いくら働いても追いつかないという、不平等を前提としたものであるということがあり、まさに近代資本主義の問題はそれだと思います。


 そしてさらに「利子」というものが関わると、さらに難しい問題となり、「資本」としての「お金」をもとに、他者に「利息」を対価として貸すことが金融になりますが、そこでの利息は労働によって生まれた価値ではなく、何から生まれた価値なのか、期限の利益というものが主張されても、それがその利子率が正当だと主張する根拠にならないのではないか、など問題がありますが、なによりも問題なのは、「過去の労働によって生み出された価値」である「資本」が、その「資本」の形そのままで「利子」により増殖していき、そして利子によって生まれた資金がさらに利子をつけて貸し出されて拡大再生産していくことでの「不平等」、かつての工業など生産における近代資本主義での不平等の問題に加えて、現代はこのような金融における現代資本主義の不平等の問題があり、それは極めて難しいお話になるかと思います。

○近代資本主義と社会主義

 そもそもが、「資本」となるものの所有権(プロパティ)が人権として重視されるのは、基本的にはその背景として労働価値説的な所有概念があるからだと思いますが、その場合は所有権に関して「平等原則」から所有権という「自由」を制限するのは、問題があるということは、広く認められていることなのですが、先述のような資本主義における所有権では、それが圧倒的な不平等の原因となってしまっていて、かつその正当性は議論があるという状態で、そこに、平等原則の適用をどのように行うべきか、自由原則をどの程度抑制するべきか、という議論があるのだと思います。


 そしてそのための対抗思想として、社会主義などがあるわけですが、そこにおいては、「生産手段の公有化」が主張されています。それは、「生産手段=資本」と読み替えて頂ければと思うのですが、労働価値説的な労働の産物とその対価で得たもので買った、私有財産は自由で問題ないとして、問題は「生産手段(資本)」である私有の工場やインフラなどで、「生産手段の公有化」によって、生産手段を持たない人をなくし、共有化しよう、という主張になります。しかしそれは、哲学的には単なる平等社会化のためだけではなく、様々な哲学的理由があるかと思います。


 そもそも資本主義に関しては、まず今までの歴史の発展と同様の形態を挙げれば、「支配階級」と「被支配階級」が存在することがあるかと思いますが、これは大きく平等原則に反するのは当然として、その支配制度が何故存在するか、ということが問題としてあって、そこには生産力の発達における、生産手段を支配する支配階級の変化が、歴史の変化の理由の一つとして上げられていることがありますように、生産関係がまず存在するからこそ、存在するわけであり、生産関係があるようにその元となる「資本」が存在し、その「資本」の所有関係が生産関係となっているといえるかと思います。


 その場合、被支配階級は自らの労働の生産物を支配階級に搾取され、その生産物が「資本」に転化すると、自らを支配する存在をより豊かにして支配を強めるなど、人間疎外をされること、支配階級の側は、被支配階級の労働の搾取を行うが「資本」の拡大再生産の運動を物象化する際の「形」にすぎない、はかない存在であり、人間性を喪失させられているという問題などがあります。


 そのために、支配、被支配の関係を解消し、人間性の回復を行われる歴史の発展段階としての社会主義があるわけですが、それがどのようなものなのかについては、極めて多様な主張があり、かつ現実の歴史において「社会主義国」と自称されたものまで含めると、とりとめがさらにつかなくなるので、個人的な見解での「社会主義」で申し上げさせて頂ければと思います。


○「自由」「平等」と社会主義における倫理

 まず、意外に思われる方がいらっしゃるかもしれないのですが、「自由」と社会主義は基本的には相反しないということがあります。「平等」と「自由」が相反するのに何故、平等=社会主義なのに相反しない、ということになるかと思いますが、言葉遊びのようで申し訳ないのですが、社会主義においては、自由と平等の相反する一番の点である経済的自由に基づく「生産手段の私有」を否定されていることが前提だから、ということになります。では、そのような「生産手段の私有」の否定をした上での「自由」「平等」はどうでしょうか。


 そこにおいては、確かに能力差や運などパラメータの差によって得られる量が違ってくるため、「不平等」が発生します。しかし、社会主義における平等概念と倫理を個人的に申し上げさせて頂ければ、もともと社会主義は人間疎外の解消と搾取の解消によって、生産物からの疎外がなくなり、自らの労働して生まれた物の価値への権利を持つので、一般的なイメージとは異なって、「労働したら、その分だけ正確に比例して返ってくる」社会なので、まずその格差は努力などに基づくもので、それを否定して平等原則で配分することは、違った形の人間疎外になってしまいます。


 また、なにより「自らの労働に比例して」であり、いわゆる資本主義における賃金格差の問題は、「同一労働で同一賃金でないことがある」「同じ労働をしているのに、学歴、国籍、人種などで収入が異なる」など、正しく努力に比例していないことが問題であり、労働に賃金が比例するのは正当なことかと思います。よって、個人的には社会主義における正義論、倫理とは、均一的資源配分による平等そのものではなく、自らの労働の結果から疎外されず応じて受け取れる配分的正義と、人間らしく生きることができる社会としての、生存権の保障としての均一的資源配分の二本立てなのではないか、と、資源配分に関する正義に関しては思ってしまいます。具体的に今主張されている内容では、ベーシックインカムがそれに当たるかと思います。


 また、近代自由主義に基づく近代資本主義で破壊されつくしてしまった、地域、職場、学校などの共同体がありますが、その共同体の再生が必要なのは、人間を原子論的個人とし疎外させていた近代資本主義に対するアンチテーゼとして、必要であるかと思います。しかし、それは決して懐古主義的なものではなく、例えば大規模生産による効率を共同体主義により否定し、村落共同体などに任せるべきか、というと、これは議論のあるところだと思います。


 よって、社会主義においては「自由」と「平等」を並立させる事が可能かもしれないことから、その「自由」と「平等」の求めるものも満たされるかと思います。「自由」においては、自由原則とそのシステムである自由市場によって、自由が確保されますが、社会主義と自由市場は、これまた意外かもしれませんが相反しません。 社会主義がもともと、古典派経済学が行われていた18世紀の周期的恐慌の解明と、それによる、生産の無秩序の解決でしたが、その無秩序の解消は別に国家が生産目標を決める必要はありません。周期的恐慌を防ぐ、という意味ならば、それは基本的には生産手段の所有者が国家である場合に問題となるのでしょうが、社会主義は生産手段の所有者が国家だとは主張しておらず、「公有化」、つまり市民社会における共有であって、いわば良い例か分かりませんが、ユーゴスラビアで一時期見られた自主管理社会主義が一例としてあるのではないかな、と思います


 そして、自由市場は、「市場均衡」というマーケットメカニズムは、社会主義における価値論に反し間違っている、と主張されることがあるようですが、これも僕個人は反しないんじゃないかなあと思います。なぜなら、社会主義において「平等」が確保された上での「自由」のもとの「合意」「契約」は、平等原則の「理性的弁証法的対話」とイコールになってしまうだろうからです。現在の中国の市場社会主義なんてものはうそっぱちですが、本来的には「社会主義」で「自由」と「平等」を達成することは可能なのではないかと思います。 

○「自由」と「平等」の均衡倫理への展望


 実際のところ、個人的に社会主義をおすすめしてしまいましたが、当然それが正しいかどうかなど、僕には断言できず、様々な「自由」と「平等」の模索が今、世界では行われているようです。


 「自由」と自由原則に関しては、それを突き詰めた場合はアナキズムになるかと思うのですが、現代においてその系譜にあるものの一つとして「リバタリアニズム」、「自由至上主義」という考えがあります。それは「最小限の権力しか持たない政府」は認めて、その制約はある、とするものの、「合意」による結果として、様々な「差異」、言い換えれば「格差」が出ても、それは自由意志による契約であり有効である、という思想がありますが、それは新自由主義と混同されることもありますし、混同というかその一種ともいわれることもありますが、系譜としては、「自由な市民社会」を主張している無政府主義の系譜にあるといってもいいかと思います。(中にはそう言われたら激怒されるリバタリアニストの方もいらっしゃるかと思いますが)

 その他には「平等」では、古典的な平等論として、「配分的正義」「矯正的正義」の対立がありますが、その中間として最近クローズアップされているのが、「矯正的正義」つまり不平等を正すために、一定額の収入を全国民に支給する、ということをした上で、「配分的正義」で、働いたら働いただけ報われ収入を公正に得られる、このようなハイブリッドな配分ならば、もっとも無理がないのではないかと思います。いずれにせよ、「自由」と「平等」は、相反するならばどれくらいのバランスでどれを抑制するか、逆に相反しないようなシステムはないのか、今、模索しているところです。。

 

 

 

 


AX


○後記
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