映画「蟹工船」のレビューです

 「蟹工船」は小林多喜二が1929年に全日本無産者芸術連盟の
機関誌である雑誌『戦旗』で発表されたプロレタリアート小説で、
その内容は貧困のはびこっていた当時の日本には、実にリアルなもの
だったかと思います。


  その小林多喜二の小説を映画化したのが、映画「蟹工船」で、
小林多喜二を原作にしているにも関わらず、非常に非イデオロジカルに
描かれている、まさにプロレタリアート小説の部分のみを抽出精製した、
ほとんどの方、誰にとっても楽しめる映画です。


  小説の方もなのですが、映画版も、登場キャラクターに「名前」が出てくる人は
ほとんどありません。判明するのは2人ほどいますが、小説版ではなんとなく感じる
名前のないという違和感が、映画においては、作業着に「ナンバー」だけ書いてある、
非人間的な姿によって、その、人間の疎外された極限を表しています。


  物語のあらすじは他の方がどこかでなされているでしょうし、
僕個人として思ったレビューをさせて頂きますと、この映画「蟹工船」は
非イデオロジカルで生きながら、生存の保持と危機を乗り越えながら、
生きている人間がまさに生きた「想い」として、それが結果的にサンディカリズム
なり社会主義なりの思想と合致するだけで、その「想い」は非常に純粋かつ切実なものです。
思想としてのマルクス主義は、読んでもなんだかよく実感が沸かない方がけっこう多い
のではないかと想いますが、思想家マルクスが、労働者、ないし、生産手段を持たない
プロレタリアートの、「生きた哲学」を生み出したのは画期的な事だと思います。


  それは、例えばよく保守なり右翼の方、特に最近では新自由主義者の方が、
労働組合を政治活動の場にするな」と、「労働組合=雇用しているその資本家へのみの対抗策」
と主張されがちですが、実際はそのような、「雇用契約を結ぶ上で対等に立つための保護手段」のみ
の存在でないのは、映画「蟹工船」でうろ覚えですが、ある登場人物が語る、
「考える、まず考える、どうなりたいか、どうしたいのか。そしてそれは何をすれば実現でき、
なにがあるから実現できないのか。その上で行動する事が重要だ」という言葉から考えれば、
そもそも「労働」とは、人間は「ホモ・ファーベル(工作する動物)」であり、
すべてではなく人間には多様な人間性があるにせよ、現実的に生存を維持するためなどの
ために、人間は「ホモ・ファーベル」にならざるを得ず、それは「労働」とは、「生きる」
というものの中で非常に重いウェイトを占めている、といえるかもしれません。


 ただし、それは決して「経済的利益のための工作」ではなく、「自らの思想信条宗教、恋愛友情など
を元にし発露した工作」というものも含み、そこがマルクス主義における人間観と、よく曲解される思想家の
アダム=スミスのいう「ホモ・エコノミクス(経済人)」と違うところだと思います。
ちなみにアダム=スミスは元々は倫理学の学者で、自由放任とは、あくまで国家権力による横暴を禁ずと
いう意味や、国家が他国家に対しての不平等を押しつける横暴を禁ずという、極めて倫理的な思想で、
「自由放任=市場で決まる事が正しい=なんでもやっていい」という曲解は間違いです。


  それはともかく、もしも人間存在の本質の一つとして、「ホモ・ファーベル」があるとしたら、
その「労働」は、人間存在にとって多様な意味を持ち、例えば「他者とコミュニケイトし連帯する場」、
「自らの想いの発露や、自ら創作する喜び」など、様々あり、そういう意味で「労働組合は自分の会社の
賃上げ以外に関わるな、関わる奴はアカだ」というのは、間違いであるのは、「労働」が他者との
コミュニケイトと連帯をするならば、その他者とは共に創る仲間であるということで、
加えて社会契約説などに基づいた人間存在の平等性を考えれば、他者と自らは対等で仲間であり、
まだコミュニケイトできてない見果てぬ存在にせよ、「労働」を行っている存在に対する連帯が
生まれるということがあります。その上で、「労働組合」は、単に「自分の企業への対抗策」ではなく、
「同じホモ・ファーベル同士のサークル」だといえるのではないでしょうか。


  だとすれば、逆に言えば、「自分や同じホモ・ファーベル」が、その創作、工作をできない(疎外)、
ということになったとしたら、その時は「ホモ・ファーベル」たちはそれをなんとかしたいと
想うのは当然ではないでしょうか。そして、「ホモ・ファーベル」なら、まだ見果てぬ相手でも、
国籍によって隔たれても、「同じホモ・ファーベル」だという意識が生まれる、
「労働」のインターナショナリズム性は、当然にあることではないでしょうか。


  そして、近現代に入り工業化で、農地や牧場などの生産手段を持っていたり、手工業を行っていた
「ホモ・ファーベル」たちが、資本家によるそれら生産手段の「等価的な対等契約」という
美名の名の下に生産手段を奪われ、結果として、プロレタリアート、元は「根無し草」という意味
ですが、それら生産手段から疎外された存在となり、かつ資本主義においては、労働によって
生み出された「価値」や「生産物」を、当然のように「私が工場の所有者だから」といって
全てを手にするという労働によるものに対しての「疎外」という問題が発生すると想います。


  その上で、「では、私たちプロレタリアートはどうするべきか?」という思考が必要になり、
それは例えばイギリスの機械を打ち壊す手工業者によるラッダイト運動から、ニューラナーク共同組合
など様々行われてきましたが、それらをマルクスが「空想的」と呼んでいるのは、問題の本質が、
生産手段の破壊やある工場のみでの平等などでは、やがて「外界」にあるむき出しの資本主義に
壊されてしまう、という意味で「空想的」と呼んだのであって、マルクス自体はロバート・オーウェン
シャルル=フーリエ、サン=シモンらを高く評価しています。


  ですから、「では、私たちプロレタリアートはどうすべきか?」は、まず「考える」ことから
始まると想います。その、「考えよう」と想わせる、この映画「蟹工船」は、とても魅力的で
面白い映画だと想います。



○後記
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