情報を取り扱う者の倫理について思うこと

○情報に関する倫理・・・マスメディアから双方向メディアまで


 1980年代より始まった情報化社会においては、情報は「ただの伝達内容を
有するモノ」だけではなく、これは情報化社会以前も大なり小なり有していた性質かも
しれませんが、特に情報化社会以降顕著なものとして、社会的物理的影響力を持った一つの
「力」として、重要なものとなったように思います。
 それは情報化社会において情報が極めて強い影響力、力を持つファクターであるという
ことからだと思いますが、現在のIT革命以前の時代は、IT革命以前の時代ですら、
つまりマスメディアの時代においては、情報を取り扱うという行為に対して、一種の、
一定の倫理が、法的など公的にも、ガイドラインなど私的にも存在していたように
思えます。
 例えば公的な情報の取り扱いに関する倫理としては、例えば放送法が一番
一般的かもしれません。放送法は、

第1条(法律の目的)第2項


 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。


第3条の2(国内放送の放送番組の編集等)


 1.公安及び善良な風俗を害しないこと。


 2.政治的に公平であること。


 3.報道は事実をまげないですること。


 4.意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。


 というように定められているように、現代社会において強い影響力を持つテレビ局というものを
法律として明文で公正中立原則を定め求めています。現在自民党ではこの規定をなくそうという
案が持ち上がっているようですが、もしもこの規定がなくなったとしたら、長所としては
人々の政治的関心が高まること、ですが、短所としては資金や権力などを持つ者が自らに
都合がいいように大衆に情報を検閲して都合のいい内容だけ報道する、という可能性が
ないとはいえません。


 それはともかくとして、IT革命以前、情報に関しては、IT革命以前ですら、
極めて細心な取り扱いがなされ、情報を取り扱う者は大きな責任を負っていました。


 しかし、IT革命によってWorld Wide Webのインターネットを通じた双方向メディア、つまり
今まで情報を受け取るだけの受身であった市民が、同時に情報を発信できる、しかも理屈の上では
インターネット利用者十数億人からアクセスが行なわれる可能性があるように情報を公開できる
社会が到来しました。


 そして、インターネットはその始まりから今2007年現在では大きく発達し、
気軽にお互いの記事をリンクしリンクされたことを知ることができて
コミュニケーションが深まるトラックバックなどを特徴とするブログや、かつては
電波法によって気軽には行なうことのできなかったラジオをインターネットを通じて
行なうことができるインターネットラジオパソコン通信時代にもありましたが、
パソコン通信時代には通信速度や通信料からも一つの書き込みについては手紙のように
ある一定の内容を持った文章をやりとりしていた掲示板が、通信速度や通信料の改善や
インターネット化によって参加する人々の数が膨大に、しかもパソコン通信の時代とは
異なって匿名性の高い情報のやり取りができるようになった結果発達した「掲示板」、
もしくはあえて別個に述べさせていただければ、2ちゃんねるのような「巨大匿名掲示板」
など、情報発信手段は極めて多様になっています。


○IT革命後の情報取り扱い倫理・・・長崎市長銃撃事件での「博士の独り言」発言から


 このような多様な発展をとげたインターネットですが、そこにおける情報倫理、
特にここでは情報の取り扱いについての倫理について考えさせて頂ければと
思いますが、情報の取り扱いについて私たちインターネット利用者やブロガーや
ホームページ管理人が負うものはどれくらいかというと、プロバイダ責任法
刑法の名誉毀損、侮辱罪、民法名誉毀損などくらいなもので、少なくとも
「情報を取り扱う上での倫理」というのは、せいぜいプロバイダ責任法での
管理人に課せられた義務くらいで、事実上ほとんどありません。


 といっても、だからといって私は「インターネットを法規制せよ」など申し上げたいのでは
ありません。そういう意味ではなく、以前、「ネットにおける情報空間の倫理」でも述べさせて
いただきましたが、情報に関して市民社会として持つ倫理、特に今回の場合は
「情報を取り扱う者の持つ倫理」についてどのようにあるべきかを考えてみたいと
思いました。


 なぜそのように考えようと思ったか、というと、先日、長崎において、選挙運動中の
伊藤一長市長が銃撃されお亡くなりになられたという、非常に痛ましい事件がありましたが、
その事件の容疑者として逮捕された城尾哲彌容疑者について、事件直後にもかかわらず、
「博士の独り言」というブログやその他のサイトで、まことしやかに「城尾哲彌容疑者は
在日朝鮮人で「白正哲」という名前である」ということが広められていました。


 伊藤一長長崎市長が17日夕刻に銃撃を受け、18日未明に亡くなった事件で、報じられた
犯人の指定暴力団山口組水心会会長代行、城尾哲弥容疑者(59)の本名は「白正哲」である
ことが判明。読者より情報をいただき、通信社筋に確認したところ、確認が得られたので
小稿に報告する。


 一方、米国・バージニア工科大で、米犯罪史上最も多い32名(米時間17日現在)の犠牲者を
出した銃撃事件が報じられたが、凶行に及び、現場で自殺した犯人は、韓国人で同大学の寮に
住むチョ・スンフィ容疑者(23)であった。


 まさに、悲惨な両事件は、朝鮮系による「日米同時銃撃事件」であった。「やはり」と
思われる方もおられるに違いない。


 無防備、無抵抗な者を銃撃する。後ろからフイ撃ちする。身体の中でもっとも無防備な
顔面を狙う。これらは、朝鮮人の犯罪の特徴である。要注意のご参考まで!


 極めて扇情的で主観的、偏見としか思えない内容ではありますが、それはとりあえず置いておいて、
これが、城尾容疑者の本名が「白正哲」か、ということに限って考えて考えますと、それが事実かどうか
私には分かりませんが、この前述の「博士の独り言」氏の発言のあった2007年4月18日から
2週間あまり経った今でも、警察発表は「城尾哲弥」容疑者のままです。


 これに対して、この「博士の独り言」氏の言説は虚偽であったのではないか、デマでは
ないのかといったことが、主にリベラル系のブログから提起されましたが、それに対して
「博士の独り言」は自らへの不当な攻撃と評して、その言説が真実であるか否かを
判断できる新たな提起をせずにいます。


 ここで問題なのは、まだそれが真実か嘘か分からない段階なので真偽の判別は
私にはできませんが、少なくとも「民主主義へのテロリズムとしての伊藤市長暗殺事件」
に対して、その容疑者に関しての情報を事件直後にすぎないのにもかからわず、
情報のソースの明示もなしに、先のような朝鮮人の方への侮辱、偏見などの言説とともに
情報を発するのは、情報を取り扱う者としての倫理に反するのではないか、
もしこの言説が虚偽であれば、故意ならば風説の流布や侮辱罪、名誉毀損を追及される
可能性がありますが、何よりも人として、ブロガーとして最低でしょうし、
過失ならば情報を取り扱う者、ブロガーとして失格だと思います。


 いずれにせよ、事の真偽が分からなければはっきりしたことは言えないわけ
ですが、少なくとも「博士の独り言」氏は、「自分に対する不当な攻撃だ」などと
話を逸らさないで、少なくとも刑法上の問題に関しては挙証責任を負っているのですから、
きちんと事実を明言することが、だれのためにも好ましい事でしょう。



○情報化市民社会として有するべき情報倫理を考える


 では情報化した市民社会においては、国家による法規制は危険極まりないため
却下するとして、自律した市民社会が持つべき倫理とはどのようなものでしょうか。
 それはまず第一に自らが情報を取り扱う際の、情報を取り扱う事についての責任を
私たちは認識しなければならないと思います。情報はキーボードを指で押すだけで
発信できますが、その発信した情報がもたらす結果は、実に多大なものがあります。


 例としては「ネットにおけるリテラシーについて〜福島瑞穂発言捏造疑惑から考える」の
福島瑞穂女史に対する言説が後に誹謗中傷であったことが明らかになったことがあるかと
思いますし、古典的な例では豊川信用金庫の一女子高生の噂話から始まった取り付け騒ぎ事件
があるかと思います。


 しかし、責任といっても責任を明らかにするためにネットを匿名でなくするべきだ、などと
いうのは、建前でなく本当に会社や国などの圧力を受けないために匿名で告発したい方が
圧殺されるだけでダメです。僕が思うのは、情報を取り扱う者としての倫理としては、
自らが取り扱った情報について不要になるまでは責任を持ち、責任の所在が自分である
ことを明確にすること、だと思います。
 情報の怖いのは、発信者が発信したあとは放置していたとしても、一人歩きして
傍流にある近い情報と合流してさらに情報が変化し、結果、「デマ」となることだと
思います。


 そして次に情報取り扱い者はそれぞれにランクというか立場があると思います。
例えば新聞社や雑誌社などの情報を取り扱う存在は、取材元のソースの秘匿や
取材テープの非公開は、博多駅テレビフィルム提出命令事件などで
認められているものではないかと思いますが、事にこれが私人である、普通の市民団体や
個人となると問題です。


 もともと博多駅テレビフィルム提出命令事件で取材の自由が認められたのは、
報道機関の報道が民主主義社会に資するため、国民が政治的判断を行なう際の
重要な判断材料を提示する立場で、国民の「知る権利」に奉仕するもの
だからなわけですが、これが普通の市民団体や個人だったらどうでしょうか。


 この場合、少なくとも市民団体の場合は、民主主義において政治的判断を下すに
あたっての資料を有権者自ら得るために情報公開請求など請求する、という意味で、
よく市民オンブズマンの「知る権利」として用いられている権利で妥当だと思います。


 では個人はどうでしょうか?個人も当然ながらにして「知る権利」は有していると
思います。しかし、今回問題になっているのは知る権利があるかないかではなく、
知る権利を行使した結果についての責任について、どうなのかということだと思います。


 その点、まず第一に報道機関は所轄省庁の許認可権を最終手段として、放送法などの
法規制などもあり、ちょっと前のバラエティ番組の捏造事件においてすら、
あれだけ糾弾された事を考えると、メディアが責任を果たしているかどうか分からないが、
メディアには責任が負わされる、といえると思います。


 第二に市民団体などの場合はどうかといえば、ちょっと市民団体とは意味合いが
違うかもしれませんが、思いつく例としては、拉致被害者の方の問題に関して、
拉致被害者は存在しなかった」と明言していた各政党や各行政機関が
拉致被害者の方と拉致被害者の方のご家族に対して謝罪を行なったのは、
言論に責任を課されているといえるのではと思います。


 そして個人が知る権利を行使した場合のその後の責任についてですが、これは
民法上や侮辱罪や名誉毀損罪などの一部の刑法はあるものの、社会的には
情報を発する個人の側の責任意識は薄いのではないかと思います。
それは、私たち日本人が、情報に関する倫理やメディアリテラシーが欠如
しているからでないかと思うのですが、その際に私たちが持つべき倫理としては、
一つは個人であるならば匿名の情報源を元に断定的に情報を発信しないことが
まずあるかと思います。


 これは、新聞社などの報道機関の場合はソースの秘匿を行なえないと「知る権利」を
十分行使できないと思いますが、個人の場合にまでそれを認めてしまうと、
いくらでも「匿名のソース」を元にした「未確認情報」が発信されてしまいます。


第二に、これは第一と同じといえば同じなのですが、自らが第一次情報提供者で
あるものでないならば情報提供者は第一次までにしておくことがあるのではないでしょうか。
これは、第二次第三次と情報源を拡大していくと、「いとこのはとこの友達から聞いた話」
ではありませんが、情報が真実であるか確認することが非常に難しくなるからです。


 これも第一と同じといえば同じなのですが、第三に、自らが第一次情報提供者、ないし
匿名の情報提供を扱うときは責任を負えるように社会的身分を明らかにしておく、
ということがあるでしょう。


それらから考えて「博士の独り言」はどうだったのか、博士氏は見直すべきでは
ないでしょうか。



○後記
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