ステレオタイプを防ぐ方策はあるか?〜ウォーラス、リップマンの主張から考える〜

○私たち人類が抱える病・・・リップマンの「ステレオタイプ」とは


 インターネット上でもよく見られるものですが、私たち人類が抱える病として、20世紀初頭に
ウォルター=リップマンによって指摘された「ステレオタイプ」という問題があります。ステレオ
タイプとは、日本語訳では「固定観念」という名訳がついていますが、「様々な個人によって
形成されるある集団を、あたかも一つの人格を有するかのように、擬人的にとらえて
その集団とその集団を構成する多種多様な人々を同一視すること」といえるかと思います。
 例としては例えば第二次世界大戦ではアメリカとナチスドイツが戦争をしましたが、
あたかも『サングラスをかけてチューインガムを噛んでいるヤンキー』と『ちょび髭をはやした
アドルフ=ヒットラー』が銃を持って撃ち合っているかのような構図で、単純化した図式で
考えることがあります。


ステレオタイプの原因と有益性


 それは極端な例ですが、リップマンによれば、ステレオタイプ自体そのものを全否定している
わけではなく、ステレオタイプは第一に考える労力を省く作用があり、それが適度に用いられて
いる限りは有益です。


 例えばいくら「中国人」が多種多様な人々、13億人の人々によって 構成されているからと
いって、例えば中国でスターウォーズが大ヒットしたことをいうのに、事細かに正確に
「中国に住む超來さん、李魯人さん・・・(中略)・・・張東さんたち3億3243万7543人の間で
スターウォーズが大ヒットしました」と言うのは現実的には無理ですし無駄な労力ですから、
ステレオタイプとして、「『中国人』の方々の間でスターウォーズが大ヒットした」という方が
妥当なのは当然だと思います。よって「労力の節約」が、ステレオタイプの第一の原因であり
作用でもあります。


 そして第二の作用として、人間は社会的な存在とはよくいわれますが、私たちが社会生活を
営むのに、例えば私や、このホームページをご覧下さっていらっしゃる方のほとんどの方も
「日本人」だと思いますが、「日本人」が実際は1億3000万人によって構成されるからといって
いちいち1億3000万人に言及して「日本人」という概念を理解するのは先述のように無駄な
労力ですし、加えて第二に社会的動物である私たちがその社会的に行動するための
自己防御手段、社会の自己防御手段として、ステレオタイプが有益だということがあります。


 つまり、「日本人」というのが1億3000万人によって構成されるからといって、全員に言及し
それを考えることは、労力の無駄なだけではなく、「日本人」という概念で成り立っている社会
そのものがその不可能なほどの労力がかかることで崩壊してしまう、「日本人」という言葉で
なりたっている社会が崩壊してしまう、というのを防ぐ作用があります。


ステレオタイプを解消する方策はあるか?・・・ウォーラスの「3つの機関」論


  しかし、かといって、ご存知のように過度なステレオタイプは有益どころか有害なだけです。
では、どのようにすればステレオタイプを解消ないし防止することができるでしょうか?
その方策のヒントとして、リップマンの大学時代の指導教官であったグレアム=ウォーラス
がいう「政治的実在」という概念とそれへの危惧と、それを防ぐためにウォーラス
提唱していることがあると思います。


 「政治的実在」とは、ステレオタイプの概念にある意味で似ているのですが、リップマンより
10年以上前にウォーラスが指摘したもので、「ある政治的存在について人々が持ち続ける
一定の継続した観念」のことで、例えば、「労働党」「自由主義」などの言葉や「赤旗」などの
シンボルなどが例としてありますが、「労働党」という単語を人が用いたり聞いたりするとき、
人々が思い浮かべるものとして「社会主義赤旗労働組合」など様々な観念があります。


 その「労働党」という単語は、例えば現在のイギリス労働党社会主義を放棄していますが、
それでも「イギリス『労働党』」という言葉を聴いたときに、人々は社会主義や左翼というものを
思い浮かべずにはいられない、それなのに実際の「イギリス労働党」は社会主義を放棄
している、その、「現実の実在」としての対象と、「政治的な実在」としてのその対象に関する
観念とのギャップないしその観念を、政治的実在とウォーラスは呼びました。


  そして、そのギャップがあるのにそのような観念が継続されていることが、政治において
人々が正しい政治的判断を行なう事をできなくしているとしていますが、ウォーラス
政治的実在を全否定はせず、逆にそれを正しく用いれば、正しい政治的判断、ウォーラス
いうところの「合理的推論」を導けると述べています。人々が客観的な政治的判断を行なえる
ように、例えば自然科学や客観的なデータ、もしくは現代社会が生み出した社会科学という
科学などを作り出す「発明」によって行なえる、としています。また、それとともに、
ウォーラスは合理的推論などを行なうための方法として、「3つの『機関』」、
「Organisation of Thought」「Organisation of Will」「Organisation of Happiness」が
あり重要であると提唱しました。


 まず、「Organisation of Thought」、意訳するならば「合理的推論のための方策」と訳せる
かと思いますが、まず人々の政治的実在の客観化のためにも、「対話」が行なわれる事が
非常に重要だとし、個人的なレベルと非個人的なレベルの二段に分け、個人における弁証法
による対話(personal dialectic)や、議会や社会科学者などによる一般的真理の抽出などを
方法として挙げて、基本的には弁証法を元にした合理性の担保をするべきだと主張して
います。


 そして「Organisation of Will」、「合理的推論に基づく意思決定手段」と意訳できるかも
しれませんが、ウォーラスは次に、3つのレベルで人々の政治的意思決定が行なわれる
として、各段階での合理的推論を導くための民主性の担保を提唱しています。その3つの
手段とは、「私有財産制」(Private property)、「地理的組織としての国家」(State)、
「非地理的組織」(non-Local Associations)の3つのレベルで、それぞれに対応する思想
として、「私有財産制=個人主義」、「State=社会主義、議会制民主主義」、
「非地理的組織=サンディカリズム」があるとし、各レベルにおいて適正にそれらの思想に
基づく政治的判断が行なわれれば、合理的推論が行なわれると主張しました。
端的に申し上げてしまえば、「私的レベルにおける自由を保障しつつ、地域において
対話、討議をして合理的推論を行い、また非地域的なものとして階級代表制による
能代表制などによる全体的利益を考えた政治的判断を行なえるようにする」という
ことになるでしょうか。


 最後に「Organisation of Happiness」、意訳すれば「『幸福』の社会的定義」ということ
になるでしょうか、簡単に端的に申し上げれば、「人間の『幸福』の概念とは単なる『快楽』
とイコールにして考えられるものではなく、多種多様な形の『幸福』があるが、それを
考慮に入れて、具体的には統計的な一般論などに基づいて、『最大多数の最大幸福』を
追求する社会を構築すること」ということになるでしょうか。


 ごちゃごちゃと申し上げましたが、これらからステレオタイプを防ぐ方策を導くとすれば、
まず「合理的推論のための方策」として弁証法に基づく思考を私的、公的に行い、
「合理的推論に基づく意思決定手段」として、各レベルごとの各価値観、哲学に基づいて、
「私的レベルにおける自由を保障しつつ、地域において対話、討議をして合理的推論を行い、
また非地域的なものとして階級代表制による職能代表制などによる全体的利益を考えた
政治的判断を行なえるようにする」ようにし、そしてそこにおいては「『幸福』の社会的定義」を
追求すること、つまり、多種多様にありうる幸福という概念を統計学などやもしくは対話などに
よって『最大多数の最大幸福』が行なえるように幸福を追求する」ということ、それら3つの事が
相互に連関しあって相互作用として「合理的推論=過度なステレオタイプのない、偏見のない
社会」が求められる、とウォーラスは言っていると思います。


○社会的認知療法・・・心理学的方法は用いれないか


 これは個人的に思っただけのことなのですが、臨床心理学における強迫観念の治療法
として、「認知療法」というものが広く行なわれています。これは、強迫神経症とは、非合理的な
ことなのにも関わらず、ある観念をしなければという観念に脅迫される」、例えば、潔癖症
場合は合理的には別に気にする汚れなどないのに、他人が触った物ならば汚い物で触れては
ならないという脅迫観念に襲われる事がありますが、それに対して、「客観的、合理的視点」が
書かれているカードを読んで学習することで、「強迫神経症の解消=『正しい認知』」が
行なえるというものです。


 そして前述のようにこれは個人的に思っただけの事なので間違っているかもしれませんが
先述のウォーラスの「合理的推論」を導くための「3つの『機関』論」を、この認知療法のように
ステレオタイプの解消法として用いれないか、社会科学や自然科学、人文科学などや
弁証法などに基づく「認知」によって行なえないか、と思いましたが、みなさんはいかが
思われるでしょうか・・・?


認知療法」のように行なえるならば、まずカードに「正しい認知」を書かなければならない
のですが、それが分かっていれば誰も「間違った認知」に陥っていないわけで、
「正しい認知」の求め方が必要とされ、そこでウォーラスの「3つの機関」論が役立つと思います。


 しかし、ここで私たちが陥ってはならない、ウォーラスやリップマンが言っている事ではない
ことは、「『正しい認知』=絶対的普遍的真理ではなく、あくまでそれは『その時点でのその社会
において最大限合理的推論を行なった結果としての認知』にすぎないこと」だと思います。
これを誤ると、「絶対的不変的真理」を「社会≒国家権力」が規定すること、なりかねず、
スターリニズムなどの過ちを繰り返すことになりますので、それだけは絶対に避けねば
ならないことだと思います。



○後記
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