「ライブドア・ショック」と新自由主義

【はじめに・・・ライブドア・ショックは「想定外」か?】


 先日急遽ライブドア証券取引法違反の容疑で捜査が入り、
世間では「ライブドア・ショック」として、主に投資家の方の世界では
衝撃が大きかったようですが、これに対してホリエモンさんの言葉を
借りて「想定外」だったと言う人々がいますが、私は別にこれらは
驚くことでもなく、「想定内」だったもので驚くものではないと思います。



【「自由主義市場経済」の論理・・・「想定内」のホリエモン


 80年代からソ連崩壊以降、世界の流れは地域によって差はありますが、
主には「自由主義市場経済」という名の下に、「新自由主義」の流れに流れ、
その中で科学技術の発達と情報化の進展とともにパーソナルコンピューターの
登場とインターネットの民間への開放で、IT革命が起こり、今現在に至り、
現在までIT関連企業がもてはやされてきたわけですが、そもそもの
「純粋な意味での自由主義市場経済」というものは、「法律の範囲内において
なら、何をやっても自由であり、モノやサービスの価格を決めるのは
購入量(あえて需要とは言いません)と供給量による」という社会です。


 この、「法律の範囲内においてなら」という部分で、今回の「ライブドア・ショック
は「想定外」だった、というのでしょうが、しかし、「純粋な意味での自由主義・市場
経済」においては、法律を守らせるのは国家によるサンクション(制裁)などの
強制力を必要とし、基本的には法律を守らないプレーヤーも想定しています。
そして、法律を守らないプレーヤーは、国家による強制力と、市場原理による
排除によって、淘汰され、自由競争により残るのは長期的に見れば優良な
プレーヤーだけで、それが市場主義における「神の手」の奇跡である、
ということだと思いますから、今回の「ライブドア・ショック」は、単に不良プレーヤー
が国家による強制力を発端にこれから市場原理による排除が行われ、倒産まで
は行くか分かりませんが、少なくとも制裁を受けて、「もう法律違反は割に
合わない」とライブドア自身にも他企業にも認識させるという意味で、「市場の
自浄作用」として、「自由主義・市場主義の想定内」の出来事にすぎないのでは、と
と思います。


【「純粋な意味での自由主義・市場主義」社会とはどんな社会か】


 おそらくここまで読まれた方で、もしもライブドアやその他巻き添えをくったの
株を持っていらっしゃる方がいらっしゃったら、「自分が損していないからって、
なにを机上の理論のことを偉そうに、私たちが受けた苦しみを他人事として
理解していない」と憤慨されるかもしれません。


 しかしながら、先述では色々書かせて頂きましたが、私自身はこの「純粋な
意味での自由主義・市場主義」に疑問を持ち、それを万能視することには反対の
立場です。


 あくまで、「純粋な意味での自由主義・市場主義」の立場の論理でいえば、
「想定内」という意味であり、私個人としては、株主の方をはじめとする今回
不利益を被った方の気持ちは私なりには分かります。


 しかし、「純粋な意味での自由主義・市場主義」が意味し志向する世界とは、
基本的にはそういうものなのです。今回の場合は企業、株の場合でしたが、
例えば去年あった耐震強度偽造問題において耐震強度の不足した欠陥マンション
を購入された方に対しても、自民党内で私有財産を国費で助けるべきではないと
主張されていたように、耐震構造偽造マンションに関しても、「被害者の方は瑕疵
のあるマンションを販売した販売主に対して、完全履行の請求か契約の解除、
そして損害賠償の請求ができるだけ」というのが、基本的には
「純粋な意味での自由主義・市場主義」の立場です。


 これらに対して、「被害者の心理を分かっていない」と思われる方がいらっしゃる
かと思いますが、心理的には同情を当然感じお察ししますが、「純粋な意味での
自由主義市場経済」の志向するものの結果としか言えないのです。


 「純粋な意味での自由主義市場経済」の社会の極端な例では、記憶では
かつてのアジアの自由主義市場経済の金融センターであった香港においては、
医薬品すらもかなり広い範囲の薬剤の販売が処方箋を必要とせず、「悪い薬は
淘汰されていく」との論理の下、自由主義に任せられ、副作用で死んだとしても、
基本的には「損害賠償」を法的に求められるだけで、道徳的・倫理的な意味では
批判はなく、「正しい薬を見抜く力がなかった」という事で「自己責任」とされます。


 極端な例ではありますが、耐震強度偽造があったばかりの日本もこれを極端と
笑える立場ではないかもしれません。「ライブドア・ショック」もそうですが、
「純然たる自由主義市場経済」においては、「長期的に見れば市場の自浄作用
により、優良なプレーヤーが残るので、不良プレーヤーの存在が明らかになる
ことは、長期的に見れば市場全体の利益になりいいことである」ということに
なります。


 しかしながら、「長期的に見れば我々はみな死ぬ」と古典派経済学、
新古典派経済学を皮肉った経済学者のジョン=メイナード=ケインズの言葉が
ありましたが、市場の「神の見えざる手」による予定調和とは、長期的に
神のような立場で見るならば、神の見えざる手による予定調和が基本的には
うまく行われ、たいていの場合その通りに長期的には適正な水準に調整がなされ
ますが、しかし、その『予定調和』が行われる間における『市場の失敗』とは、
生身の生きた人間が被るものであり、『市場の失敗』を受けた生身の人間の
立場としては、「市場全体から見れば、市場の浄化に繋がり極めて
有意義なものだった」といわれても、納得できないでしょう。


  『市場の失敗』とは、主にマクロ経済において、市場メカニズムによって生じた
不経済的なもの、失業などを代表としたものを指します。しかし、マクロ経済から
見て「市場の失敗」もまた、「長期的には市場全体の利益となるため許容すべき」と
するのならば・・・私はある意味、「純粋な意味での自由主義・市場主義」は、
ある種の「全体主義」を前提としているのではないかと疑問に思います。


【かつてあった自由主義の対義語とされた「ソ連型『共産主義』国家とは】


 ここまでで、「純粋な意味での」と「自由主義・市場主義」の前に留保をつけて
いましたが、これは今現在はそう簡単に「自由主義・市場主義」だといえない事情
があるからです。


 すなわち、かといって「社会主義・計画経済」ともいえない、そういった
自由主義的側面と社会主義的側面を持った「混合経済」が、昔に比べたらだいぶ
減ってしまいましたが、今も多少は残っているため、区別するために呼んでいます。


 この、今申し上げた弱体化しているものの存在している、私たちが現実に
生きている「混合経済」とは、本来は主に19世紀から20世紀前半にかけての
第一次から始まるインターナショナル運動、そしてなによりもロシア革命により
成立した、「ソ連型『共産主義』国家・計画経済国家」を脅威として感じた
資本主義各国が、いわばアメとムチのアメとして福祉国家政策が導入し、
また社会主義者や穏健的自由主義者、労働者の要求によって、じょじょに
自由主義国内において混合経済として成立していったものです。


  そこで、何故「ソ連型『共産主義』国家」と留保をつけたかというと、こういうと
冷戦崩壊後の「負け犬」の左翼の言い訳のように聞こえるかもしれませんが、
まず第一にマルクス主義を代表とする本来的な意味での社会主義においては、
特にマルクス主義においては、経済、産業の未発達な国である帝政ロシア
おいて革命が起こるというのはまさに「想定外」だったからであり、そして、
その発展途上であったロシアにおいては、マルクス主義が想定していた、
「巨大な生産力の発展によって資本が発展する一方、周期的恐慌などにより
労働者と資本家との間の矛盾が極大化して革命が起こり、生産手段を労働者が
所有することによって、その生産手段から生まれる膨大な富から、労働者は
働いただけ正当な権利として搾取のない報酬を享受する」といった、マルクス
想定していた「社会主義社会像」は不可能であり、かつ、戦争とその後の
列強各国の革命への介入と内乱の混乱と続く間に、「ソ連共産主義」は
「戦時共産主義」という名前が用いられたように、開発独裁的に行われましたが、
その革命後の人類初の「共産主義国家」と呼ばれたものには、致命的な制度的
欠陥がありました。


  それはつまり、ソ連があったころに生きて記憶のある方はおそらく疑問に
思われた方もいらっしゃるかと思いますが、ソ連の最高権力者は「書記長」でした。
これは、革命後、レーニンなどが率いる合議制の内閣的な「政治局」において、
主に公文書や人事を扱う書記局に政治局から代表を送り込むことが決まったとき、
他の政治局員は「書記局」に対し魅力を感じず、発言力が当時弱かったスターリン
を初代局長として任命しました。


 そしてスターリンは本来は地味なイメージのある書記局が、「人事権」という
強力な武器があることを利用して、党内の重要なポストをじょじょに自分の配下の
部下を任命することによって、影響力をじょじょに増させ、レーニン脳梗塞
倒れてから、その後誰が「レーニンが復帰するまで」政治を行うべきか、という問題
で、スターリンは、レーニンの当然の後継者と目されていたトロツキー
追い落としたいジェノビエフ、カーメネフと同盟を結び3頭政治を敷いて、
トロツキーをはじめとするソ連の独裁化に反対する左翼反対派を追放し、
やがてモスクワ裁判などを通じて独裁体制を敷いていったという背景がありました。


 だから書記長が最高権力者とされていたという、名前からで分かる制度的欠陥
があった面があります。その後第二次世界大戦後に成立した「共産主義国」は
そのソ連を頂点とした、中世カソリック体制になぞらえられるコミンテルン体制の
下、ソ連支配下に敷かれます。


 「共産主義国」は世界の半分を占めましたが、ユーゴスラビアなどごく一部の
国を除いて、基本的にはソ連のコピーであったのは、どこの国も最高権力者が
「書記長」だったことからわかります。


 そしてそれら欠陥を持ったソ連が「共産主義」なのか、ということについては、
実のところロシア革命当初から社会主義者共産主義者の中でも懐疑的な人が
ある程度いました。例えばイタリア共産党の指導者であった、ヘゲモニー論など
国際政治学でよく普通に名前が出てくるアントニオ=グラムシは、ロシア革命
資本論に反した革命」として批判していました。事実、帝政ロシアという後進国
社会主義革命が起きることは、前述の通り、マルクス主義的には
「想定外」だったからです。


 しかし、世界の大多数の社会主義者共産主義者は、「まあ、そういったことも
あるさ」と思い、ソ連をはじめとする「共産主義国」から伝わってくることを
信じ込みましたが、スターリン死後にフルシチョフによって行われた、それまで
世界に知られていなかったスターリンの独裁と恐怖政治を暴いた「スターリン批判」
により、世界の多くの社会主義者共産主義者は驚愕し、絶望し、それまでの
アメリカだけではなく、反ソ連としてソ連を批判し、それは新左翼運動、
ユーロコミュニズム社会民主主義運動へと繋がっていきます。


 よって、少なくとも本来のマルクス主義なり社会主義の意味では、「ソ連」は
その意味の社会主義なり共産主義ではなかったといえるのではないかと
思います。


 しかし、そもそも「共産主義国」という言葉自体でも共産主義でないということも
分かります。何故なら本来の意味での共産主義では国家は存在しないからです。



 長くなりましたが、そういった意味で、思想的な意味での社会主義共産主義と、
国際政治での一翼として一世を風靡した「ソ連型『共産主義』国家、計画経済」を
区別して使っています。ただ、もちろん仮に思想と限ったとしても「社会主義
共産主義」に罪がなかったわけではないとは個人的には思います。


 それは、まず第一にここではマルクスに限りますが、「資本論」などで
マルクスの言ったのは「資本主義の分析」でその先の「社会主義社会」について
は、哲学的な概念として言及するだけで、具体的なシステム論などは言及して
いませんでした。


 それがある意味で、どうとも解釈できるため、ああいう風になってしまったのかも
しれませんが・・・少なくとも個人的な意見では、社会主義共産主義の欠陥
としては、民主主義論、システム論が欠けていることがあり、それがレーニン
少数精鋭党論と繋がり、レーニンの罪としての憲法制定議会の解散、そして
その後のスターリンへの独裁と繋がった意味で、罪があると思います。


新自由主義とは、今向かっている社会とはどんな社会なのか】


 だいぶ話がそれましたが、あえて「ソ連型『共産主義』国家・計画経済」と
いいますが、それらの影響によって、自国への波及を恐れる自由主義者や、
ソ連型『共産主義』には反対するが、「市場の失敗」など「純然たる自由主義
市場主義」には問題があると思う自由主義者や民主主義者などの人々によって、
8時間労働制をはじめとして、様々な権利やそれを保証する制度が生まれ、
特に「大恐慌」によって、完全な悪循環に陥いり閉塞した経済から
「神の見えざる手」の万能性に疑問視がもたれ、ケインズ主義などを代表とする
修正資本主義が生まれました。


 それは「市場の失敗」をいかに抑えるか、それが「ソ連型『共産主義』国家・計画
経済」に疑問と脅威と問題視を抱く自由主義者、民主主義者によって、
自由主義国内でも社会主義が本来批判の対象としていた『周期的恐慌』などや
『市場の失敗』を抑えることができる」として、例えば今は廃れてきていますが、
厚生経済学」など、自由主義の立場から『市場の失敗』をなくすことができるよう、
様々な努力と思索が行われました。


 しかし、それは80年代におけるソ連の弱体化と91年におけるソ連崩壊、東欧
民主化革命により、「純粋な意味での自由主義・市場主義」の競争相手ないし
敵であった、「ソ連型『共産主義』国家」が崩壊し、その内情がひどいものであった
のが東西分裂がなくなり情報が入ってくるようになり分かると、一気に
「『共産主義』『社会主義』の敗北」として、フランシス=フクヤマ
「歴史の終わり」としたように、自由主義・民主主義社会が当たり前の
ものとなります。


 この、自由主義・民主主義が当たり前になったということは、ある意味では
非常に重要で、素晴らしいことだったのですが、フクヤマなどの言葉を誤解し、
またソ連型『共産主義』国家群の歴史的背景からの社会主義と呼ぶことについて
の問題点や社会主義の中の様々な思想の潮流があるのを無視して、『共産主義』と
一語に集約し、否定すべきものとしてとらえた人々は、次はそれまで冷戦下
築き上げられてきた「混合経済」「福祉国家」を否定し、「新自由主義
として80年代後半のレーガノミクスサッチャリズムを初めとして、90年代から
2000年代までに一世を風靡し、「自由主義・市場主義」の名の下に、まずは
福祉国家の解体、そして国家の市場への関与の否定と進み、だんだんと
「純粋な意味での自由主義・市場主義」に近づいていっているように思います。


 「新自由主義」や「起業家」「投資」「ニュー・エコノミー」などは、確かにIT技術は
ファブレスカンパニー(工場のない会社)を実現し、情報化はSOHOなども可能
にし、投資はインターネットを通じて世界中あらゆるところから、あらゆるところへ、
いつでも投資できいつでも売れるという、21世紀のIT革命に基づいた面が強い
ですが、思想的に言えば、それらは結果的には産業革命からインターナショナル
運動などの社会主義運動の成立以前の「純粋な意味での自由主義・市場主義」
への回帰であり、いわば「19世紀以前への回帰」にすぎないと個人的には
思います。


 もちろん、様々な意味で現代と19世紀以前が異なるのは、前述した通り
分かりますが、現状を見る限りでは、「新自由主義」がいう「小さな政府」という
ものの中身は、国家の役割は国防や治安などにだけ国家の役割はつとめる、
ということですが、それはある意味では昔されていた「純粋な意味での資本主義」
に回帰することに他ならないと思います。


 これらの問題を踏まえた上で、今回の「ライブドア・ショック」を見ると、株式
制度など昔とはだいぶ違いますが、ある意味では「純粋な意味での資本主義」
では「想定内」のことであり、偉大なる自由主義者、民主主義者、社会主義者
社会民主主義者など、先人たちの作り上げて築き上げてきた
自由主義・市場主義を完全否定しない混合経済」を「古いもの」として切捨て、
「純粋な意味での資本主義」へと移行しようと進めるなら、今後も同様なことは
当然に起こるでしょうし、国民健康保険の民営化なども自民党内では言われて
いますから、人の命すらも、「市場の失敗」により奪われるかもしれないとしても、
でも、それは市場全体から見て有益であり、「想定内」のことである、とされる日が
来るかもしれません。私はたいした力はありませんが、それらに反対していきたい
と思います。



○後記
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