ネットにおける情報空間の倫理

 数あるネット上の言論空間は、それぞれ独自の論理を持っていますが、それらが問題なく、
どのような論理であっても、機能しているのは、「問題のある言論空間は選択されずやがて廃れる」
といった、神の見えざる手のような至上原理主義的な、「思想言論の対抗市場」としての
インターネットというものが理想とされているからだと思います。


 代表的なのが2ちゃんねるだと思われるわけですが、2ちゃんねるは「思想言論の自由市場」の
言葉を体現したかのように、情報の発信や受信をほぼ完全に利用者の判断に任せ、
90年代の終わりから・・・というと、インターネットが普及したのがWindows95からでしょうから
当たり前なのかもしれませんが、当初はアンダーグラウンド扱いもされていたのが、Windowsなど
ソフト面も含めた情報インフラの拡大は、例えばかつては子供として無力であった少年たちを、
ネットという相互交流的メディアを通して自分が「主人公」になれる、といった錯覚を持たせてしまい、
犯行予告や実際の犯罪などまでが起きてしまうなどのことがあります。


 このように、基本的には思想言論の自由市場と思想的背景には自由主義winnyの「共有」の概念や
知的財産権などで見られる、かつての「工場」や「土地」「商店」を前提とした資本主義に対し、
前述のファブレスベンチャーなどの例を見ると、もしかすると共産主義まで含まれているかも
しれないインターネットという言論・・・というより、情報空間ですが、私たちにとってはそれを
受動的にマスメディアのように受身になるなら、情報空間の面が強くなるでしょうし、
相互コミュニケーション的メディアの面から能動的に用いるなら、「私たちの」言論空間となる
のかもしれません。


 そして、その私たちの言論空間である、言論空間の一つの例である掲示板において、
ある種特異的なことが起きているように思えます。それは、前述で何回も述べさせていただいている
思想言論の自由市場が、自由主義、民主主義を思想的背景として、かつ、それを理想としていて、
それに反する言論空間は、自然淘汰されるはずだ、という「理念」「理想」が、現実にはそうでは
ないような情景が広がって見えたりしているように思えます。
 管理人のカリスマ性に基づく「独裁的」サイトないし掲示板、特定の立場や思想や好みの者のみが
入りうる、極めて「排他的」なサイトないし掲示板・・・これらは何故、その自由主義や民主主義を
思想的背景としている「理想」「理念」から単純に思いつくように「自然淘汰」されないのでしょうか?


 それは二つの可能性が考えられます、一つは、それらのサイトないし掲示板が、
「そのやっている人には、例えば1日10時間つきっきりなど、大きな存在かもしれないが、
潜在意識としてサブカルチャーと認識されている」ということで、その立場をさらに突き進めると、
ゆえにそれに対抗するネット上にのみ限ったメインカルチャーとして、言論の自由が最大限ある
2ちゃんねるなどやその他公式サイトが存在するのではないか、という考えです。


 もう一つは、これはある研究者の方がご指摘されていらしたことで、私の独創的考えでは
まったくないのですが、私の考えも入れさせて頂いて説明させていただければ、
現代のインターネット社会は、そのシステムや背景にあった理念は、確かにWorld Wideで、
InterNationalなものに見えたが、まず、言語の壁により、World WideやInter Nationalといったものは、
英語圏の人の前からは影を潜め、現実的にはインターネット上のコミュニケーションは、
1対多というカリスマ的存在による関係か、1対1の、マンツーマンのコミュニケーションが数多く
積み重なり、多対多のように擬似的に見える「狭い」コミュニケーションとして存在するなど、
いわば、古代の「ムラ」的な狭い共同体と、中世的な停滞した世界観が、そこにはあるのではないか、
といったようなことを述べていらっしゃったかと思います。
(その研究者の方のお名前と、載っていたサイトは、忘れてしまって申し訳ないのですが)


 この二つの説のどちらが正しいか、というと、非常に難しく、前者はそれら狭い共同体は
サブカルチャー」と潜在的なり意識的なりに認識しているのに対して、後者の説は、
その狭い「ムラ」的共同体こそ、唯一のカルチャーであり、そもそも現代的なメイン・サブと
いったカルチャー概念から後退している世界、だと思うからです。


 自分で言っておいてなんですが、私は後者の、なんという学者さんだったか忘れてしまいましたが、
その方の言説が妥当なのではないかな、と思います。無意識にサブとメインと分けている、これ自体は
ありえる話かもしれませんが、それは後者の説で、ムラ共同体の一人であっても、社会意識の高い人ならば、
その場をサブカル的な場と割り切って、本人がメインだと思っている共同体やカルチャーの中では
考えられない、別人のようにふるまう、といったことがあるかもしれません。


 しかし、そのような「インターネット」社会像を考えると、そこにおける「現実」「リアル」とは
なんなのか、と考えてしまいます。ある人にとっては当然のこととして、「現実」「リアル」とは、
日常の生活空間である、と主張されるかもしれませんが、同様にある人にとっては、「現実」
「リアル」とは、日常の生活空間である「ネット上の」ある言論空間である、と主張されるかもしれません。


 しかし、だとしたら、そのようなほど影響力を持つネットという言論空間を、思想言論の自由市場として、
自然淘汰にまかせるままにしておいていいのだろうかと思ってしまいます。それは誤解のないように
申し上げれば、国家権力やなんらかの権力が、ネット上で「良識」ある言論空間として「取り締まり」
を行なうべきだということではありませんし、そんなことに対しては私は大反対です。


 私が申し上げたいのは、いわば、それだけネット上の言論空間が「リアル」に近いものであるならば、
生活空間に近接するものならば、一種の「倫理」、言論空間の場合は「討議倫理」ともいえるのかも
しれませんが、誰かが取り締まるわけではないですが、道徳とは異なって普遍的な妥当性を持つ
倫理概念が、求められているのではないか、思想言論の自由市場だとしても、ムラと封建制の状態に
あるような言論空間に対して、あくまで一つの答えとして、民主主義や自由主義を背景にした、
我々人類が言論空間における倫理として培ってきた倫理を、提示するべきではないのか、
と私個人は思います。 



○後記
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