人間のエゴイズムとアニマル・ライツの相反性

 実は最近、猫の鳴き声がして外を見てみると、キジトラの猫さん2匹
がいて、ちょうど隣の人が引っ越したばっかりだったので、隣の人が
引っ越す際に捨ててしまったのかと思い、以前僕のせいで一緒に
住めなくなった猫さんがいる!と再開を喜んで、罪滅ぼしのために
なんとか再び一緒に住めるようにと、怖がっているので怖くないよと
慣れてもらおうとゆっくり慣れてもらおうとしていました。



 しかし、慣れてもらえた頃に、実は隣の隣に引っ越してきた住人さん
が、引っ越し先から連れてこられた猫さんで、僕が以前一緒に
住んでいた猫さんではないと分かり、残念ながらその隣人の方の
保護している猫さんで一緒には住むことができず、やはり別れた猫さん
と再開はできないのかと落胆していました。


 ただ、前の猫さんには再開はできないかもしれないですが、
罪滅ぼしとしてその猫さんのお世話させて頂いていたときに
猫さんと一緒に住む喜びを感じて、前の猫さんではなく、
行く先のない里親募集をされている猫さんと新たに住めればと
思い、里親募集をしている近所の動物病院と、里親募集をしている
サイトを見て、猫さんを飼いたいと思いました。


 しかしながら、ある方から、単身者が猫を飼うのは、非常に難しい
のではないか、また医療費など金銭的負担ができないなら飼う資格が
ないのではないか、他の時にお聞きしたのでは、部屋に閉じこめている
のは可哀想だ、と、猫さんの立場として、僕と一緒に住むのが
果たして幸福であるかどうか、という疑問をご意見として頂き、
「猫さんの側としての幸福」の視点から考えると、非常に難しい問題
であると、非常に悩んでいます。


 倫理学的観点から言えば、本来的に動物を「飼う」という、
不自由を強いる事は、人間の側の不当な搾取、ないし、
不自由の対価としての食事と住居の提供とは動物の自由意志を
無視した人間の側の押しつけであり、動物の権利(animal rights)に
反する、と言えます。


 もちろん、確かに「動物に自由意志はあるか」の問題から、
「動物の自由意志を確認する方法があるか」の問題、もしくは
「動物の自由意志を尊重することが、結果的に動物の幸福に繋がるか、
例えば動物が自由意志で車道に飛び込む事を、人間の合理的思考による
動物の幸福の尊重の観点から自由意志に反する行為を強いる事は妥当ではないのか」
などの問題もあるかもしれません。しかし、そうだとしても、やはり難しい問題です。

 もし仮にそれをクリアしたとしても、「果たして責任を負う資格があるか」
といわれれば、極端な話では、僕は単身者ですが、
ある日交通事故に遭って下半身不随になり、動物を飼っていたのが
飼えなくなってしまう、という事から、もう少し現実的なものとしては
動物が難病になったときの医療費負担ができるかという可能性など
まで考えると、どうしても動物を飼う事は否定されるべきなもので、
反倫理的である、自分のエゴイズムを満たす以外の何者でもない、
ということになると思い、非常に陰鬱になってしまいました・・・。


 正直なところ、どれが正しいのか分かりません。「考えすぎだ」
といわれればそうかもしれませんし、「ベジタリアンでなく、
牛肉などの動物を食べているのにこのケースだけアニマル・ライツを
考える というのは偽善的だ」といわれれば、そうですとしか言えません。


 ただ、そこまで極端に悩むべきかどうかは置いておいても、
「果たして動物を飼う権利、ないし、責任を負える力があるか」
ということについて、もう少し考え、決意を固まってから決める
べきかもしれないと思います。ご意見アドバイス頂ければ嬉しいです。

※よく考えてみれば、アニマル・ライツも重要ですが、
僕などの人間は同じ人間の生存する権利ですら、尊重できていない
状態で、アニマル・ライツを考えられるか、といわれれば、
非常に難しいと思います。例えば僕たちは趣味やなんらかの快楽など、
生存するための最低限の衣食住以上の消費行動を行っていますが、
他方、世界には生存するための最低限の衣食住を満たせていない、
死んでいく人たちがいるという現実では、僕たちが余剰消費分を
その方達に回していない現状では、「倫理学的観点」や「アニマル・ライツ」を
考えるのは、偽善的である、ともいえ、さらに鬱になります。。

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