ユートピアかディストピアか

  「AI革命」と「労働力の補助」として、AIとロボットの時代だという言葉が聞かれ、これは20世紀に思い描かれていた、人間は働く事を必要とせず、ロボットにすべての労働を任せ、自由な人生を歩める、といったユートピア像が実現しそうなように見えてくる。


  しかし、そのような一見ユートピアが成立するような、労働力をAIやロボットに置き換える場合に問題になるのは、まず、そもそも、そのAIとロボットの所有権は多くの人には無く、ほとんどが、いわゆる1%の富裕層が握る事になる、という事だ。


  つまり、AIとロボットというと言葉が近未来的だが、基本的に単に生産手段と労働力が、AIとそれの指令に従ったり自律的にAIを持ち動くロボットが生産手段となり、その所有者は1%の富裕層であり、そのAIとロボットによるもののような、第四の産業革命で生まれる富を、1%の富裕層が国民に分配する理由もない、という問題がある。


  そして、その生産手段で創られた価値を持った商品は、もはや労働力を売る場所がどんどんと縮小され限定的になった時代には、いわゆる労働者、もしくは従業員でも会社員でもいいが、99%の人にとっては、労働力を売る市場が縮小するため、商品が買えない、という状況を生み出す可能性がある。その場合、一体誰が「商品」を購入できるのか。


  恐らくは個々の資本家、もしくは「資本」の運動原理でも、そのような「労働力を究極的に削減する事によるコスト削減での利潤追求と、労働力が究極的に削減され労働力を売る事ができない、文字通り【根無し草】の99%の人間が、そう製造された『商品』を買う事ができないという矛盾」の事を全然想定せず短期的な運動を繰り返す事しか考えていないのではと思う。


  個々の資本家に善良な人は居るし、それを危惧する人がいるかもしれないが、個々ではそれを理想主義的に、例えば新しいユートピア的共同体を創るとしても、ニューラナークのように失敗する可能性はかなり高いし、結局は根本にあるその究極的な矛盾に衝突することになる。


  一般的に、「生産手段の発達による生産力の発展」とその「生産手段を用いた生産関係」の矛盾は、かつてのマルクスが言った、史的唯物論的に、そう生産関係が、生産力の妨げになる時、革命が起きるという事が言われているが、そう、革命が起きてもおかしくないような、極めて大きな矛盾が起きうると個人的には思う。


  しかし、そういった「革命」、そこまでいかないなら政治による解決といった「政治の季節」のようなものが起きなかったとしたら、もしくは、「『政治』、『民主主義』という不確定的な予想の難しい要素」を「生産力の発展など、資本の発展と運動の足かせになる」と、1%の資本家だったり、もしくはそうでない存在だったりが判断した場合は、最近は「レガシー(遺産)」という言葉が用いられているが、その名の通り、民主主義やその思想から派生するものは「遺物」として、急激に投げ捨てられる危険性がある。


  少なくともこの文章を書いている2018年1月までに、政治の舞台では予測がつかない事が立て続いた。それが、ブレグジットだったり、様々な無益な戦争や紛争だったり。トランプ大統領の当選だったり、そういった予想がつかない「非合理的な」結果になることは、そういった「ローカル」な「政治」での不確定性での混乱があった。


  グローバリゼーションが終わったか終わってないか分からないが、少なくともグローバル企業は多数存在している中で、それらを所有している1%の資本家が、「民主主義やその思想によるものの政治は、推測できず合理的でなく経済原則に反した非合理的な選択をしかねないシステムなリスクファクターに過ぎない」と判断した場合、本当にそれらは「レガシー」として、文字通り瞬く間にひっくり返されて、民主主義や、その思想である基本的人権などそれらの思想でない、とても良い結果となるとは思えない、「政治の終わり」の結果になりうると思ってしまう。


  一体、「政治の季節」となるか「政治の終わり」となるか、分からないが、そういった矛盾、「生産力が爆発的に増え、生産手段の所有者と、その生産手段で生み出された価値の所有者が1%の富裕層にあり」、「生産関係が崩壊し、労働力が不要になることで、大多数の人間が労働力を売る事で以前はお金を得て商品を購入していたのに、できなくなる」という、「商品を買う主体の消滅」と、「商品市場の究極的縮小」と「商品の爆発的な量の効率的生産」という、とても矛盾に満ちた事に直面するのではないかと思う。


  ただ、先述のように、各資本家だったり企業がそう生産力を上げ、人間から労働力を購入する事を辞めるのを、と進めていくと、「商品は膨大にできるが、買う人がいない」という結果になるので、どうしてもそこで、仮に近代民主主義などを「レガシー」として放棄し「政治の終わり」となるか、しかし、なりふり構わない抑圧で矛盾を押え付けようとしても、矛盾は根本的には解決されない問題として、「政治の季節」として矛盾が解消されるまで残る事になる。


 さらに言えば、「資本の運動」には、必ずしも資本家などの人間形態などは必要ない。もしもAIが法人と結びつき、今以上の法律上の権利の保障がなされれば、1%の富裕層という人間主体すら必要としない。合理的判断が成されない可能性がありAIに拒絶される可能性があるのは、民主主義での主権者である人々だけでなく、1%の生産手段たるAIとそれが生産する生産手段を所有する資本家という人間存在もまた、リスクファクターでしかない。法人名義で所有され、法人が自然人を必要としなくなったら、1%の富裕層すら排除されるかもしれない。そうなると、ただただ、人間が労働力を売る事ができず、買うお金が無く買えない商品ばかりの市場で、恐慌と好景気を繰り返しながらの資本の運動が複雑な形で繰り広げられる中で、しかし長期的には資本の自己増殖で無限に発展していく、人間主体が無いゲームとしての資本主義、などが起きる可能性がある。


  その大きな矛盾の極みの時に、果たして「政治の季節」の再来になって、「革命」などの変動が起きるのか、現代では思い付かなかった何かしらの変動が起きるのか、分からないが、少なくとも、今のまま進んだ場合、あまり良くない結果になるのが予想でき、今はまだそうなっていない、というのを考えると、別に「革命」が起きたり起こしたりなのかは置いておいて、せめてそういった地獄のような矛盾とならないように、人間が人間であり理性的な存在として長い歴史と思索の中で産みだして来た、民主主義や基本的人権や哲学・思想が「過去の不要となって放棄されたもの」、「レガシー」とならないよう、近代民主主義やその周辺の思想である、基本的人権などの思想や、自由や平等や様々な政治哲学的成果を守っていくのは、今私達ができる、精一杯の事ではないだろうか。
(何だかよく分からない結論になりすみません・汗)