日本版オリーブの木としての野党共闘の実現性と将来性

  昨今のたて続き行われる安倍内閣による政治のニュースを見ているますと、私は思わず、ワイマールドイツにおいて政権獲得と全権委任法でファシズム国家に変質させる際、ナチスが行ったワイマールドイツの民主主義を破壊する「乗っ取り( Machtergreifung)」に似ていて思い起こしてまう事が起きているように思えます。特定機密保護法、アクロバティックな解釈改憲、安保法制(戦争法)、違憲立法など矢継ぎ早に、強引に成立させる安倍内閣ですが、それに対して、民主主義と立憲主義を守るために、野党5党が今、結束しようとしています。

  この事は、今まである意味で非妥協的、と申し上げると不正確だと思いますが、妥協を許さず筋を通してきた日本共産党が「国民連合政府」の実現と主導し、今、野党再編とそれによる、イタリアにおいて見られた「オリーブの木」に似た、反ファシズム…というと語弊がありますが、国民軽視・人権侵害・憲法違反の安倍政権への対案として「一点共闘」での政権構想が、極めて強く、今求められていると思います。  


  そう申し上げると、「反安倍さんだけを旗印にした脆い寄り合い所帯、烏合の衆だ」とおっしゃる方がいらっしゃるかもしれませんが、野党再編・統一候補というものは、小選挙区比例代表並立制における小選挙区制において、必然として浮かび上がるもので、今まで実現できなかったのは、確かにカラーが違うから、というものもあるかと思います。
  
  しかし、その中で、自民党の右傾化が激しくなる中、リベラルの統一、団結が求められ、そしてその現実的な懸念として、安倍政権が行った数々の危険性の高い政策が、その野党共闘、団結を決断させるものになったのだ、と個人的には思います。戦後日本政治の悲劇は、「『対抗野党の不在』という宣伝での、消極的現状支持」による「対抗野党を本気で政党側が戦略的に取らず、そして国民がその『対抗野党の不在』という宣伝により、野党という選択肢を持てず、対抗政党を育てられなかった、その点が悲劇だと思います。
  その中で野党共闘が現実味を帯びている訳ですが、それへの先ほどの想定される批判に対し、野党共闘の実現性については、小選挙区制での野党の合理的選択であり、反共アレルギーや逆に民主・維新を批判し自党の無謬的清純性を訴えるなど、そういったものが障害としてあったのが、今回の安倍政権の暴走に対し、「そういうことを言っている場合でない」と共闘を各党が現実的選択肢として考えている事、それが実現性として言えるのではないでしょうか。
 
 
  そしてその「反安倍政権の寄り合い所帯・烏合の衆」という野党共闘への懐疑・冷笑についてですが、今回の野党共闘大義、目指し実現しようとしているものは、「安倍政権が破壊した憲法を無視した反立憲主義、反民主主義、反平和主義を正し、憲法に基づいた民主的な平和な日本を『取り戻そう』という事で、それに関しては各党は極めて強く一致しているかと思います
 

  特に、そして特に、日本共産党がその大義のために小義をあえて、「留保」するという英断が、野党共闘の実現性と将来性を物語るものではないかと思います。今までは日本共産党は、あくまで筋を通すと対抗候補を立てる事、それは確かに正しい事だと思いますが、結果として自民党への異議を抱く方々の票が各野党に分散する事で、自民党という右翼政党を長い間政権党にしてしまうという、確かに正しいですが非現実的に候補を必ず立てるという手段が、自民党の悪政にストップをかけるという目的に、先行して結果、目的が手段を貫く事で果たせないという悲劇を、今この危険極まりない安倍政権への審判の時に繰り返してはならない、その決意があるからこそ、国民連合政府構想がある、その決意こそが野党共闘の将来性を表すものではないでしょうか。
  
  
  確かに政策的不一致はあるでしょう。ですが、党利党略を越え、そしてあくまで安倍政権によって破壊された立憲主義、民主主義、平和主義を取り戻す、その事を通じて、イタリアにおいて見られた緩やかな共闘としての「オリーブの木」の形での現実性と将来性が、野党共闘にはある、そう私は希望を持って思います。